眼下に広がる大海原。  アイゼン=リリーとゴレムは、海を往く。 「…ええ、段々思いだしてきたみたい」  リリーは弟の頬に耳を当てながら言った。  ゴレムの“声”は、内に籠もっている。  リリーは体に耳を当て、それを聞き取っている。 「海ばかりね……ゴレム、足、冷たくない?…大丈夫? ならいいけれど」  リリーは四方八方見渡しているが、クレマチス諸島から離れた後は、 小さな陸地一つ見ることがなかった。  リリーは、心の仄暗い部分で、静かな、恐怖と似た感情を抱いていた。  このまま、どこにも辿りつけないのではないだろうか?  戻って、ずっとあの場所に留まっていた方が、いいのではないだろうか?  そんな思いが渦巻いて、リリーの体は小刻みに震え出した。  そんな中、ゴレムはリリーに言った。 「…えっ……海底の形が……? そう、もうすぐ着くの……あなたが言うのなら、 間違ってはいないのよね」  ゴレムの言葉を聞き、リリーの震えは治まった。 “大丈夫、もうすぐ着くよ、おねえちゃん”  ――ゴレムは、大体このようなことを言ったのだろう。  ゴレムは巨大な土人形だが、その心は少年である。  姉思いで動物が好きな、やさしい少年。リリーはそんなゴレムを愛していたし、 ゴレムもまたリリーを愛していた。  リリーは空を見た。綿飴の様な雲が浮かぶ、のどかな風景。鳥は群れを成して 軽やかに躍るように飛んでいる。  島を出て、よかったかもしれないわね。ふと、リリーはそう思った。 「ゴレム、あなたはいつ目覚めたの……ずっとずっと昔? そう……待っていて くれて……」  リリーの言葉はそこで一旦止まった。島だ。 「…ゴレム。やっぱり、あなたの言うことに間違いはないのね」 「あなたは隠れていた方がいい」  海岸、リリーはゴレムの足を撫でながら言った。 「島に住む人間に見られたら、きっと大騒ぎになるもの……御免ね」  リリーはゴレムの足に耳を当てた。ゴレムはリリーに言った。 「…御免ね、寂しいだろうし、寒いだろうけど、海に隠れて待っていて。 身を隠せる大きな山でもあればいいのだけれど……」  傾斜のない、全体に平らな島であった。 「…大丈夫? あなたはいつもそう言うのね。うん、強い子。早めに 戻ってくるからね――」  寂しげなゴレムの声に後ろ髪引かれながらも、リリーは森へ向かって歩きだした。 ゴレムはリリーの姿を見送ってから、海に潜った。  森を抜けたリリーは、突如現れた別世界に圧倒された。 「なあに、ここは……」 【ロドン】と書かれた大きな立て看板。  リリーが圧倒されたのは、そのあまりに個性的過ぎる、街に立ち並ぶ建築物 たちだった。  斜めに傾いている大木の幹のような家、外壁が草の網込みでできているパン屋、 そして、地面から浮いて見える建物―― 「私のいた島とは、全然違うのね」   リリーは、ロング・スカートのレースの裾が地面に着かないようにちょんと 持ち上げながら、浮いて見える建物の、ぽっかりと空いた空間を凝視した。  よく見ると、そこには何もないわけではなかった。地面と同じ色の柱が四本、 しっかりと存在し ていたのである。 「不思議ですか? 黒づくめのお嬢さん」  背後から男の声がして、リリーはそちらを振り返った。 「いえ、もう分かったわ。柱が地面と同化して、そこにあると一見では分からない ようになっているのよ」 「そう。一見しただけでは、まるでこの家が地面から浮いているように見える。 まあ、建築家の遊びですな」  男は、握手の手を差し出してきた。 「はじめまして、私はシラー。オーク美術館の館長などさせて頂いております」  リリーは、その握手に応え、 「私はリリー。アイゼン=リリーよ。さっき、たまたまこの島に辿り着いたの。 この島は、ロドン、というのよね」 「ロドン? いいえ、それはこの街の名前で。島の名前はバーベナですよ」  シラーは、握手の手を離して、 「他の場所から来るお方というのは珍しい。しかもそれが、こんなにも美しい お嬢さんということだと、これはもはや空前絶後の出来事ですな」  シラーは、リリーの美しい灰色がかった黒髪と、スーツの上半身に開いた 胸元の白い首飾りを見ながら言った。 「この街は、見ての通り建築が大きく発達しているのですが、それと同じくらいに 絵画も発達しているのですよ。建築・絵画の二つが中心なのです」  掛けているメガネをくい、と上げ、シラーは言った。 「私の美術館では、貴重な絵画を多数展示しています。どうぞ、今からでも お越し下さい。なに、入場料など取りはしません。美しいお嬢さんから小銭 を取っては笑われます故」  笑いながら、着いてきて下さい、とリリーに背を向けて歩き出したシラー。 嫌悪感を覚えながら、リリーもまた歩き出した。この島のこと、世界のことを知る為に。 「…このように、グロリオーサ・キチン期の絵には、貝殻を細かく砕いた 粉末を混ぜた絵の具が使用されており、その光沢は他の時代の絵とは一線を 画するものです――こちらはグロリオーサ・マッシュ期のもので――」  オーク美術館ではシラーの蘊蓄が垂れ流されていたが、リリーはそれを半ば 聞き流して、自らの興味の赴くままに、自分の感性で、自分の選定で、楽しく 絵を眺めていた。  整然と並ぶ絵画の中で、特にリリーの目に留まった一枚があった。 「シラーさん」 「きのこの菌類細胞が――なんでしょうアイゼン=リリー?」 「この、くすんだ絵はなに」  リリーが指差したのは、キャンパスの大部分を黒が占める、おどろおどろしい 雰囲気の絵だった。 「ああ……これは、グロリオーサ王国最後期に描かれたものですね。記録では、 『ジャイアント=ステップ』一週間前にこの島に輸入されてきた、とあります。 歴史的には意義のある、貴重な絵ですが……私自身は、あまり好きではない」  シラーはそう言って、溜息をついた。 「この黒で描かれたものは?」 「特定は未だされていません。しかし、一説には、『ジャイアント=ステップ』 を引き起こした元凶たる巨人を描いたもの、と言われています」 「巨人」  リリーは、すぐにゴレムのことをイメージした。しかしそれがネガティブな ものだったので、すぐに頭から切り離した。 「そうした絵の背景については、“批評家”に訊くのがベターですよ」 「批評家?」 「芸術が育つということは、見る側もまた育つということです。この美術館にも、 お抱えの批評家が多数揃っております。この絵に関するより正確で深い歴史が 知りたいのなら……ギャラは無料からで、高額な者では……」 「無料の批評家をお願い」  遮るように、リリーは言った。  そんな即答で、と言いたげにシラーは苦笑い。しかし気を取り直して、 「…無料の者は、三人おります。皆有料の批評家より劣りますが、中でもセロス という男はやめた方がいい! 奴は異端中の異端、物珍しさで契約しましたが、 今年度でもう契約も打ち切ろうと思っているのですよ」 「分かったわ。そのセロスという人で御願い」 「…………」  シラーは、絶句した。  その日の夕方、リリーはセロスの家の前に立っていた。  セロスの家は、この街の奇抜な建築物の中では、相当に地味な――というより 安価な――もので、むしろ珍しく見えた。  リリーは、扉をノックした。 「セロスさん、アイゼン=リリーです」  そう言ったあと、すぐに扉が開いた。 「…女か。まあ、名前からしてそうだろうとは思ったが……」  扉が開いた瞬間、刺激臭が鼻を突いた。リリーは臭いに対する耐性が強く出来て いるが、それでも多少顔をしかめた。  セロスは、見た目三十路前の男だが、顔は髭で覆われており、髪も伸び放題に していて、とても女性にもてそうな風体ではなかった。 「今月初めての仕事だな……まあ、入ってくれ」 「失礼します」  リリーは中に入って、今度は部屋のあまりの散らかりっぷりに目を丸くした。  ゴミ、本、食べかす、タオル、服、そして絵――全てが乱雑に混じり合い、 しかも全く調和していない。それは稀有な風景だった。 「こんなところでも、人間は生きていられるのね」  心底感心した顔で思わず呟いたアイゼン=リリー。 「おい」  と、セロス。 「…まあ、いい。時間ももう遅いしな……ヨソの人だから、今夜は民宿にでも 泊まるんだろう? まあ、早く終わらせたほうが、いいんだろう」 「その前に、訊きたいことが二つあるの」 「訊きたいこと? それは、まあ、俺に答えられることならいいが……」  セロスは「まあ」が口癖のようである。 「多分、答えられると思うわ。この世界では常識のようだから――」  リリーは言った。 「『ジャイアント=ステップ』について、詳しく教えて」 【アイゼンリリーと巨人の絵】