U 「…なに?」  アイゼン=リリーの質問を聞いて、呆気にとられた顔をしたセロス。 「そんな、子供でも知っているようなことを?」 「この世界では常識なのでしょうけど……本当に、私は知らないのよ。まだ、 何も――」  セロスは、頭を掻いた。フケがぽろぽろと舞い落ちた。 「寓話にもなっているようなことなのにな……まあ、なんだ。この世界は、 一度滅びたんだよ。遥か昔、4体の巨人が突如として現れた。どれ位の時間 争ったかは分からないが、とにかく、そいつらは迷惑なことに人間の住む場所で 同士討ちを始めたわけだ。それこそ、世界のあらゆる島々を転戦してな―― 巨人は、その強力な戦闘能力で、多くの島々を沈めた。運よく沈まずに残った、 この島のようなところも、幾つもの“巨大な足跡”を刻まれ、酷く痛めつけられた」      リリーは、昼間からの疑問をセロスにぶつけた。 「グロリオーサ……という国は、その、『ジャイアント=ステップ』によって 沈んだの? 美術館の、シラーという人は、そのようなことを言っていたけれど」  ああ、このアイゼン=リリーという娘は、本当に何も知らないのだ……セロスは、 全てを悟ったような顔をして、 「…グロリオーサ王国はな、まあ、『ジャイアント=ステップ』前の超大国だ。 グロリオーサの繁栄ぶりは凄まじく、様々な技術が現代とは比べるべくもない 程に発達していたという。まあ、この島も過去には書物・絵をはじめとした多く のものを輸入していた。こちらには輸出するようなものは、橙百合くらいしか なかったそうだが」 「橙百合?」 「グロリオーサの貿易官がそう名付けたそうだ。本当はこちらが名付けた別の名前も あったらしいが……正確には、百合ではない別の花だったが、まあ、よく似ていた そうだし、百合はグロリオーサの国花ということもあって、無理矢理百合ということ にして、本国に流通させていたらしい。今はもう、橙百合も絶滅してしまったがな」 「それも、『ジャイアント=ステップ』のせい?」  セロスは頷いた。 「橙百合は、弾力性、柔軟性、そして耐久性を兼ね備えた、素晴らしい茎を持っていた。 たとえばこのペン。これは、橙百合の茎を束ね合わせて加工したものだ。数百年前の品 だが、今でもこうして実用に足る。持ってみるか」      リリーは、ペンを手に取った。ペンは力を込めると、ぐに、と曲がった。それが 面白くて、リリーは何度もそれを繰り返した。その内に、あることに気付いて、背中の ル・レーブを取り出し一度、二度と軽く振った。 「…同じ」 「ん」 「セロスさん、これ」  リリーは、セロスにル・レーブを渡した。セロスの顔付きが変わった。 「こりゃあ……アイゼン=リリー! お前、なんだこりゃ……?」 「橙百合って、この島以外には、確かに存在しないのでしょう?」 「まあ……間違いない、はずだが……驚いたな」  セロスはまじまじと、ル・レーブを見た。 「…橙百合で出来ているに違いないな、この竿は」 「つまり――」 「グロリオーサで製造された、ということになるなあ。この島じゃあ、釣竿になんて 加工されはしなかったはずだ。記録にない。それに、貿易関係を結んでいたのは、 グロリオーサだけで、他国に橙百合が出回るなんてことはほとんどなかったはずだ」  それが一体何を意味しているのか――リリーの頭に、様々な推測が浮かんでは、 すぐに押し出されてゆく。 「…アイゼン=リリー。お前は、随分と面白いなあ。不思議な女だ。まだ見たところ、 17,8というところだろうに。あまりにものを知らなかったり、かと思えば、 こんな逸品を持っていたり……ううん、不思議だ」 「…私も、自分自身が不思議だわ」  無理矢理笑みを作って、リリーは言った。 「まあ……どうだ、疑問は解消できたか」 「ええ、当初に感じていたものは、ね。色々聞いたら、余計に増えてきてしまった けれど……」  疑問は山積していた。しかし、それがこの場で氷解するものではないという ことも、リリーには分かっていた。 「まあ、もう日も暮れた。本題に入ってもいいか」  本来の目的は、絵の解説をもらうことだった。リリーは頷き、傍らに置いていた 包みを開いた。 「ああ、この絵か……」  昼間見た時より、絵は不気味に見えた。室内の光が薄く、暗闇が絵に染み込んで、 黒をさらに際立たせた。 「アイゼン=リリー」  セロスは、リリーの三白眼を見つめながら言った。 「お前、なかなか見る目があるじゃないか」 「え」 「この絵には、お前の知りたい情報が詰まっているかもしれないぞ」 「…じゃあ、これは」 「グロリオーサ最後期を代表する画家・ラケナリの作品だ。ラケナリは自らの絵を 自国内には置かず、国外に放出することで有名な作家だった。まあ、作品を 国外にも知らしめたかったのか、真相は闇の中だが、まあとにかく、この絵は なにかの運命でここにやって来たわけだ。もしかしたら、ラケナリ最後の作品かも しれない」  リリーには、既に分かっていた。訊くまでもなく。  ここに描かれているのは、もはや疑いの余地もなく―― 「…巨人」 「まあ、間違いないだろう。ラケナリは、生まれ育った国が巨人達に蹂躙されるのを、 何としても記録しておこうと思ったんだろうな。実際、繊細な筆致が特徴である ラケナリ作品としては荒いタッチで描かれているし、批評家の中にもこれがラケナリ 作品だと知らない人間も僅かながらにいるくらいだ。情けないことだが」 「私は絵のことなんて分からないけれど、この絵が目に留まったの。不思議と、この絵 だけに――」 「…まあ、それがお前の運命だよ。アイゼン=リリー」  セロスは、腕まくりをして、壁に巨人の絵を立て掛けた。そして、その前にリリーを 立たせた。 「何をするの?」 「ここからが、俺の本当の仕事だ」  セロスは両手を合わせ、合わせた掌をリリーの腹に当てた。 「絵の表面に軽く触れるんだ」 「…何を、しようとしているの」 「俺がオーク美術館とプロの批評家として契約を結べた理由、そして仕事料無料、 月の仕事平均一件の理由……全てひっくるめて、この力のせいだ。でも、俺には これしかない。これが俺のアイデンティティであり、スタイルなんだよ…… アイゼン=リリー、今からお前を、この絵の中に“飛ばす”。嫌ならそう言え」  セロスは大きく息を吸い込んだ。  リリーは全てを飲み込んだ。 「私はこの世界のことを、何も知らない……だから、全てを受け入れる。そうでないと、 何も掴み取ることはできない。知る人間からすれば不思議なことでも。だって私は 知らないもの」  セロスの口元が緩んだ。そして、一気に息を吐き、力を伝えるように、リリーの臍を とん、と押した。 「気をつけて、行って来い!」  部屋の中は、セロス一人になった。 「…アイゼン=リリー……」  セロスは呟いて、巨人の絵をじっと見つめていた。