X  アイゼン=リリーが絵の世界から出てきた時、夕陽は既に沈んでいた。  夜の闇は、リリーの胸の奥にある不安を生じさせた。  ゴレム――  ずっと、海の中で待たせている、弟のことが、無性に心配になった。 「…戻らなければ」  リリーは立ち上がり、セロスの手を握って、 「ありがとう、セロスさん。あなたのお陰で、少し賢くなれた気がするわ」  そう言って、手を離し、小走りでリリーはセロスの家を出て行った。  セロスはリリーを呼び止めようとしたが、何しろいきなりのことであったため、 声が出てこなかった。 「アイゼン=リリー……森へ、向かっているのか」  夜の森は危険だ。  夜行性の、人を襲う動物が多く、道も荒れている。  1人で行かせるのは、危ない。  アイゼン=リリーを助けなければ。  …アイゼン=リリーを、助ける為に行くんだ。  セロスは、そう自分に重々念じて、別の、体の底から湧き上がってくる激しい感情に、 必死に蓋をしていた。  彼にとって、理由は、もはやどうでもよかった。  ただ、アイゼン=リリーと理想の別れ方をしたかったのだ。 「ゴレム。出てきて」  昼間、リリーがこのバーベナ島に降り立った海岸。  ゴレムは、この海の底で寂しくしているのだろう。そう思うと、リリーの心は 激しく痛んだ。 「ゴレム? もう出てきてもいいのよ。ゴレ――」  足音と、息切れの音。  リリーは森の方を振り返った。 「セロスさん」 「…アイゼン=リリー……無事、森を抜けたようだな」 「私、夜目がきくみたい」 「そうか……まあ、俺は、ここに辿り着くまで4回転んだよ。地元民なのにな、俺……」  それを聞いて、リリーは少し吹き出した。 「おかしいか」 「御免なさい、少し」 「少しか……そうか」 「ふふふ」 「ははは……!」  セロスは嬉しかった。  アイゼン=リリーが笑ってくれる。  俺などを見て、笑ってくれる―― 「…アイゼン=リリー」 「何?」 「これを持っていけ」  セロスは、丸まった古びた紙をリリーに手渡した。 「これは……」 「地図だ。グロリオーサから輸入したもの――つまり、『ジャイアント=ステップ』 以前のこの世界のかたちを記録したものだな」 「…地図」 「赤で囲んであるところがあるだろう。そこが、この島だ。ここから西へ向かうと、 かつての大大陸・ロべリア大陸にぶつかる。今はどうなっているか分からないが、行く術 があるのなら、行ってみるのもいいんじゃないか。ここに遺された歴史とはまた違うものが 見られるだろう。そして、できれば、いつか……」  この先は、言えなかった。 “いつか……この島にまた来て欲しい”  セロスには、それが言えなかった。 「いつか……何?」 「…何でもないよ。ただ、お前は興味深い女だったなあ、とね」 「その言葉、そっくりそのままお返ししたいわね。あなたのその格好、そして能力。 ふしぎよ」 「有難う……って、褒め言葉なんだろうか」 「それは、あなたの心のまま」 “このまま、ずっと残ってくれないか” “お前がコンビを組んでくれれば、俺は無料の批評家じゃなくなる” “絵の中をナビゲートしてくれる存在が欲しかった。お前はうってつけだ” “それに……お前は魅力的で、美しい……”  ――来る前に言おうとして考えていたことの、何一つ出てこなかった。 「…じゃあ、行くわ」  リリーはそう言った後、 「ゴレム!」  海が、割れた。  現れたのは、土巨人。  巨人に表情はなかったが、リリーには分かった。 「寝惚けてる……今まで、眠っていたわね?」  リリーはル・レーブを振り上げた。  糸は肩口にかかり、リリーの体を瞬きする間に巨人の肩の上に運んで行った。  巨人の名はゴレム。アイゼン=リリーの弟である。  セロスは、海岸に尻餅をついていた。  体も声も震えていた。 「…巨人……!」 「またね、セロスさん」 “またね”――  またね?  …また、逢えるということか!?  セロスは立ち、大きく息を吸った後、堰を切ったようにしゃべりだした。 「アイゼン=リリー! お前はもしかしたら絵の中で見たことを唯一無二の真実だと 信じているかもしれない! しかしそれは違う! 画家とは対象を描く際、自分の中で それを咀嚼し、別の存在に変換するものなんだ! だから、お前があの中で見た光景 全てが真実というわけではない! アイゼン=リリー! 全ての物事はそれと同じだ! 真偽入り混じるこの世の全てを、ありのまま飲み込んじゃいけないんだ! それさえ 分かっていれば、お前のその目はきっと物事の奥の奥まで見通せるようになる! アイゼン=リリー! お前は素晴らしい!」  セロスは、どんどん離れて行くリリーに聞こえるよう、大声で叫んだ。  そして、闇に紛れて見えなくなった。 「…巨人……まさか、いや、しかし……なんて不思議な女だ、アイゼン=リリー」  セロスは、家を出る寸前、リリーに握られた手をじっと見た。リリーの手はひやりと していて、血が通っていないようだった。  それならばと、セロスは懇願した。  俺が、アイゼン=リリーの手を鉄のように冷たいと思ったのと同じように、アイゼン= リリーも、俺の手を暖かいと思っていてくれないだろうか――  アイゼン=リリーは、ゴレムの肩に寝転がり、じっと手を見ていた。  熱かった、セロスの手。  ということは、多分、私の手はとても冷たいのだろう。リリーはそう思った。 「ゴレム、この方向にずっと歩いてね。そうすれば、きっと何かにぶつかるわ」  リリーは、ゴレムの肩に耳を着けた。 「本当に御免ね、ゴレム。次は、あなたの身を隠せるところがあるといいのだけど」  ぼくは大丈夫だよお姉ちゃん――ゴレムは、凡そそのようなことをリリーに伝えた。 「また、強がって……え、深海魚と……ふうん、楽しそう。リズムに合わせて…… あなた、暇つぶしが上手いのね」  ゴレムは海の底で、そこの先住民たる魚達と戯れているらしい。ゴレムが、 「こう動いて欲しい」  と言うと、その通りに動いてくれるという。  しかし、眠ってしまったのは、途中でそれにも飽きてしまったからだろう。 「でも――冷たいのは、嫌よね」  リリーはぽつり、呟いた。  もっと知りたい、リリーは思う。  あらゆることを知りたい。  そうすれば、そのうち、体を暖かくする方法も分かるかも知れない――  とりとめもないことを考えているうちに、アイゼン=リリーの意識は途切れた。 【アイゼン=リリーと巨人の絵/了】