V  少女の身に、帰り道に想像したとおりの展開が待っていた。帰宅した少女の姿を、少女の母親は 氷のような目で見定めた。白い衣服は所々破れ、あるいは緑色が滲み、スカートの裾には血もつい ていた。母親は一つ大きく溜息をついた後、今の娘が自分の愛娘ではないことに腹の底から苛立ち を覚えた。傾けた愛情が空回りした瞬間、それは憎悪へと変貌する。それがたとえ、親としてどん なに歪んだ愛情であっても――  母親は、鋭く少女の頬を叩き、無言のまま"仕置部屋"まで腕を引いて連れて行った。少女は何も 抵抗しなかった。家につく間の僅かな時間の中でも容易に想像することが出来た展開だったからだ。 既に覚悟は完了していた。  母親は静かに古い木造のドアを開け、娘を中に押し込めて閉めた。ドアの外からはたくさんの鍵 が擦れ合う音がした。母親が、この部屋の鍵を探している。愛を裏切った娘を閉じ込めるために。 反省を与えるために。悔い改めさせるために。貴族の子として自覚を持たせるために。そして何よ り、自分の理想とする愛娘へと矯正させるために。母親にとっては、娘の裏切りによって毛羽立っ てしまった己の精神を、なだらかな稜のように良化させるためにも、この行為は必要不可欠だった。  鍵が掛かった部屋の中には、静寂と埃臭さと小さな窓しかなかった。ここには暇を潰すためのパ ズルも少々退屈な教訓本も、もちろん甘いお菓子も、何もなかった。だから少女は目を瞑った。眠 りに落ちるために。眠ってさえしまえば、時間は過ぎる。時間が過ぎれば、鍵は開く。そこには満 足そうな顔をした母がいるだろう。伏目がちに、か細い声で謝ればいい。涙が混じった声ならばさ らに望ましい。これまでずっと、少女はそうしてきた。とはいえ、一抹の不安もあった。この部屋 に閉じ込められるのも、もう三年振りになる。果たしてあの頃のように上手くやれるだろうか――  自分はなんてくだらないことを考えているのだろう、と思った。自分はなんて惨めで弱い存在な のだろう、とも思った。私はもう十歳になったというのに、どうしてやりたいことをやっただけで、 こうして自由を奪われなければならないのだろう、外で友達と遊んだら、高貴な人間ではなくなっ てしまうのだろうか。どうしてお母様は私に辛く当たるのだろう。どうして、そのことを愛と呼ぶ のだろう――何もやることがなく、眠りにもつけなければ、人間に出来るのは考えることのみだ。 少女は、どう考えても答えが出ないであろう問題を考え続けていた。  堂々巡りに終止符を打ったのは、窓にコツンと当たった小石だった。少女の顔より少し大きい程 度の窓から顔を覗き込ませたのは、木登りの少年――ルピナスだった。  少女はあっ、と大きな声を上げそうになって、寸でのところで堪えた。頭の中は驚きと疑問で一 杯だった。 「どうして、ここに?」  少女は窓を開けて、ルピナスにそう訊いた。ルピナスは窓の前で腹ばいになって、楽な姿勢で会 話出来るようにした。 「きいてなかったから」 「何を?」 「名前。きいてなかったから」  確かに少女はルピナスに名前を教えていなかった。 「…それだけのために?」  呆れたような、嬉しいような――複雑な感情が少女の胸に訪れた。少なくとも、嫌ではなかった。 ルピナスの顔を見ていると、全てを忘れられたからだ。理解に苦しむ母親も、貴族という身分も、 ルピナスの前では何も関係ないように思われた。少女とルピナスの関係は、ただ一緒に木登りをし た、友達に過ぎないのだから。 「ぼくが名前おしえたのに、おねえちゃんがいわないのはずっこいでしょ」 「…うん。だけど、ルピナスはここに来て大丈夫なの? 怒られてしまわない?」 「だいじょぶ。せんせいはね、お昼寝の時間でみんなと一緒に寝ちゃってるから。ぼくはかかんに もせんせいにかこまれた間をぬってここまでたどり着いたんだ」 「…そう」  ルピナスの勇気を知り、少女は自分が恥ずかしくなった。ルピナスにも恐れはあっただろうに、 それを物ともせずここまで来た。名前が知りたいと、それだけの理由で。それに引きかえ、何も抵 抗せずこうして閉じ込められた自分。覚悟を決めたといえば聞こえは良いものの、結局甘んじて受 け入れてしまっただけのことだったのだ。そこには勇気などなく、あるのは諦念だけだった。少女 は、初めからどう足掻いても母親には敵わないと諦めてしまっていたのだ。  ルピナスには威張る資格がある――そう思いながら、少女はルピナスの得意満面を見ていた。見 れば見るほど、可愛らしい顔をしていた。こんな弟がいたらどれ程幸せだろうと、少女は思った。 「でも、このでっかい家のどこにいるかなんてわかんないから、ぜんぶ窓見てみようと思って。下 のほうから見ていこうと思ってたら、いちばん最初の、こんな地面の近くの窓にいたなんて! こ こがおねえちゃんの部屋なの?」 「…そう、ここが私の部屋。おあつらえ向きの部屋よ」 「ここだったら、ぼくらの部屋のほうがいいけどなぁ」 「そうかもね――ストケシア」 「すとけしあ?」 「私の名前。覚えてね、ルピナス」  少女――ストケシアに、笑顔が戻った。ほんのささやかな笑顔だったけれど。