【ストケシアとルピナス】 T  アイゼン=リリーは仰向けに寝そべり、目蓋を閉じていた。  当面の危機は過ぎた。ゴレムの飛行速度は"ゴーレム"のそれを遥かに上回っていて、アイゼン= アイリスとアイゼン=サルビアの禍々しい気もこちらへ向けられている様子はなかった。  アイゼン=リリーは、久方振りに安心を得た。  その安心とは何時振りか――アイゼン=リリーは、ランドモス島での長き眠りより目覚めて以来、 世界探求の旅を続けてきた。記憶も無いまま水の星を歩き、行く先々で出会いを重ねた。  これまでの旅路は刺激的で新鮮だった。しかし同時に気の抜けないものでもあった。安心を得る のも貴重なのだと、アイゼン=リリーは思っていた。  ゴレムの飛行速度は衰えることなく、脅威の迫る気配もなく、目的の地へは確実に近づいてきて いる。アイゼン=リリーとゴレムの思いはリンクしていた。行く先は、遥か北西の孤島――そこに、 "最後の一人"がいる。  ――どれくらいで、着きそう? 『この夜が明ける頃には。少なくとも、歩いていくよりは早く着くだろうね』  アイゼン=リリーは微笑した。この安心が、少なくともあと数時間は続くことを喜んだのかもし れない。  しかし、その笑顔自体はゴレムに対してのみ向けられたものではなかった。 「大変だったわね、アイゼン=リリー」  目は閉じられているのに、目の前には確かにストケシアが立っていた。  "コスモス"とは、アイゼン=リリーとストケシアの"宇宙"。アイゼン=リリーは、眠りの淵に隠 れていた"コスモス"に、いつの間にか入り込んでいたようだった。 「あなたほどじゃないわ、ストケシア」  ストケシアの姿は、アイゼン=リリーのそれと同じではなかった。自分の格好を確認してから、 ストケシアは言った。 「…今回は、余程疲れているみたいね。いきなり、最深部まで来れたもの」 「そう……なのかしら。そういうものなの? "コスモス"って――」 「大量に記憶を流し込まれたからでしょうね。記憶の消化作業で、"コスモス"にまで、圧がかかっ ていたわ」 「感じたの?」 「それは、ね。だって、私はあなた――」  ストケシアが次の言葉を発する前に、アイゼン=リリーは遮った。 「あなたは私」 「そう」  二人は、互いに笑った。涼やかな笑い声が、真っ暗な空間に――響いた瞬間、周囲が青に染まっ た。  "コスモス"の環境は、二人の感情如何で変わってくるようだった。 「…今のあなたになら、伝えてもいいかもしれない」  ストケシアは、笑顔のまま、目だけを少し鋭くさせた。 「だって、あなたは前を向いているから。今のあなたに、迷いは見られない」 「…アイリスとサルビアは、この星を完全に破壊するつもりだわ。だけど――そんなことは、させ ない」 「そう、させてはならない――」 「――絶対に」  アイゼン=リリーとストケシアの思想は、完全に一致していた。 「…ねえ、アイゼン=リリー。あなたがリアトリス――アイゼン=サルビアから得た記憶は、どこ からが始まり?」 「…目覚めた時。前の目覚め――生まれた瞬間」  ストケシアは頷いた。最初から、そう答えると確信していたように。 「あなたには、苦になるかもしれない。今も膨大な記憶を消化している最中だし。でもね、今しか ないかもしれないの。もう――」  ――聞かせてあげられる時間はないかもしれないの。  ストケシアは、そこは飲み込んだ。 「もう?」 「…安心して目蓋を閉じていられる暇が、ないかもしれないでしょ?」 「……」  確かに――アイゼン=リリーは、そう思った。  行く先で、"最後の一人"に出会ったとして、そこから悠長に構えていられる暇は、きっとない。 「だから、あなたに聞いて欲しい。"もう一人のあなた"――私のこと、ブロシアのこと、パフィの こと、リアトリスのこと……そして、ルピナスのこと」  ストケシアの深い黒目は、アイゼン=リリーの目を真っ直ぐに捉えていた。 U  ――グロリオーサ王国に、まだ光が届いていた時代。  あぶない!――丘の上、幼い少女は、頭上の大木を見上げて叫んだ。子供が、木をよじ登ってい た。 「あぶない! 降りてー!」  少女の声は、子供に届いた。子供は木を滑り落ちて、あっという間に地上に達した。少女は、ホ ッと胸を撫で下ろしたものだった。  しかし、子供――少女より少し年下に見えるその少年は、少女の手を掴んでまた木に密着した。 「あぶなくないよ」 「え、だって――」 「登ればわかる」  少女は多少混乱したが、すぐに少年の意図するところを理解した。 「…私に、この木を登れと言うの?」  少年は黙って頷いた。 「いっしょに登ろうよ。下から助けてあげるから」  下から、と聞いて、少女は首を三度横に振った。 「私、見ればわかるでしょうけど、スカートなの」 「すそ、しばれば見えないよ」  ホラ、と少年は少女の背中を押して、木に手を着かせた。  少女は少年の強引さに戸惑いを隠せなかったが、戸惑いの正体は別にもあった。正直な話、少女 は木登りに憧れていたのだ。先程も、少年を止めてはいたが、その一方で羨ましい気持もあった。  少女は時折、自分が男の子だったらどれ程良かっただろう、と思うことがあった。  ――あぶないし、女の子のやることじゃない。だけど……登ってみたい。  これまでは、両親からも止められていたし、周りの目もあって、自分の気持を押し込めていた。  しかし少女は、意を決した。スカートの裾を縛って、下から見られないようにした。  ――きっと、しわがついてしまう。お母様に、叱られる……  しかし、今更後には引けぬ。決意した少女は、心の重石を跳ね除けた。 「ところどころ、手足の引っ掛かるくぼみとかがあるから、ちゃんとつかんでてね」 「う、うん……!」 「じゃあ、押すよ」  少年は、少女の両太股を掴んで、思い切り押し上げた。少女は足をバタつかせて、なんとか木の 窪みに足を掛けた。そこで一息をついたが、安心していても仕方がない。まだ、地面からほんの少 し離れたに過ぎないのだから―― 「止まってても、つかれるだけだよ。早く登って」 「わかってる……!」  決意は少女を突き動かした。綺麗な白のドレスは汚れ、木の尖りに引っ掛かって所々破けたが、 まるでお構いなしだった。少年も、頭上の様子には驚いていた。 「おねえちゃん、木登りはじめてなんでしょ?」 「そうだけど、男の子たちが登ってるところは何度か見てきたから……なんとなく、わかっていた わ」  憧れていたということは、しっかり見ていたということだ。少女は、この世代の子供としては理 解力が抜群に高く、両親にとっても自慢の存在だった。 「すごいなぁ」 「…てっぺんの枝、着いたわ!」  少女と少年は、遂に頂点まで辿り着いた。そこからは、グロリオーサ王国が一望できた。少年は、 少女が楽しそうなのを見て、尋ねた。 「こわくないの? こんなに高いところに立ってるんだよ。下見るとこわくない? ぼく、はじめ ての時はすごくこわかったよ」 「ここほどじゃないけれど、私の部屋は二階だから。高いところは、慣れているの。あっ! ホラ、 あれが私の家――」  少女の指差した先には、大きな建物が見えた。少年はふーん、と言った。 「…おねえちゃんは、"貴族"のひとなんだね」 「え――」 「せんせいが言ってた。"ルピナス、貴族のひととあそんではいけませんよ。あなたとちがうひと なのですからね"――って」  ルピナス――それが少年の名のようだった。 「だから、ぼく、帰るね。せんせいに怒られちゃうから」 「あっ、ちょっと!」  少女の言葉を聞かずに、ルピナスは木を滑り落ちて、走り去って行った。その先には、小さな建 物があった。 「…ルピナスは、あそこで暮らしている……?」  少女は、その場所を知っていた。  孤児院である。 「…違う、人……」  少女の胸には、ルピナスの言葉がトゲのように突き刺さっていた。そしてそのトゲは、少女の心 に小さな痛みを与え続けている。  それは、少女の嫌いな思想だった。 V  少女の身に、帰り道に想像したとおりの展開が待っていた。帰宅した少女の姿を、少女の母親は 氷のような目で見定めた。白い衣服は所々破れ、あるいは緑色が滲み、スカートの裾には血もつい ていた。母親は一つ大きく溜息をついた後、今の娘が自分の愛娘ではないことに腹の底から苛立ち を覚えた。傾けた愛情が空回りした瞬間、それは憎悪へと変貌する。それがたとえ、親としてどん なに歪んだ愛情であっても――  母親は、鋭く少女の頬を叩き、無言のまま"仕置部屋"まで腕を引いて連れて行った。少女は何も 抵抗しなかった。家につく間の僅かな時間の中でも容易に想像することが出来た展開だったからだ。 既に覚悟は完了していた。  母親は静かに古い木造のドアを開け、娘を中に押し込めて閉めた。ドアの外からはたくさんの鍵 が擦れ合う音がした。母親が、この部屋の鍵を探している。愛を裏切った娘を閉じ込めるために。 反省を与えるために。悔い改めさせるために。貴族の子として自覚を持たせるために。そして何よ り、自分の理想とする愛娘へと矯正させるために。母親にとっては、娘の裏切りによって毛羽立っ てしまった己の精神を、なだらかな稜のように良化させるためにも、この行為は必要不可欠だった。  鍵が掛かった部屋の中には、静寂と埃臭さと小さな窓しかなかった。ここには暇を潰すためのパ ズルも少々退屈な教訓本も、もちろん甘いお菓子も、何もなかった。だから少女は目を瞑った。眠 りに落ちるために。眠ってさえしまえば、時間は過ぎる。時間が過ぎれば、鍵は開く。そこには満 足そうな顔をした母がいるだろう。伏目がちに、か細い声で謝ればいい。涙が混じった声ならばさ らに望ましい。これまでずっと、少女はそうしてきた。とはいえ、一抹の不安もあった。この部屋 に閉じ込められるのも、もう三年振りになる。果たしてあの頃のように上手くやれるだろうか――  自分はなんてくだらないことを考えているのだろう、と思った。自分はなんて惨めで弱い存在な のだろう、とも思った。私はもう十歳になったというのに、どうしてやりたいことをやっただけで、 こうして自由を奪われなければならないのだろう、外で友達と遊んだら、高貴な人間ではなくなっ てしまうのだろうか。どうしてお母様は私に辛く当たるのだろう。どうして、そのことを愛と呼ぶ のだろう――何もやることがなく、眠りにもつけなければ、人間に出来るのは考えることのみだ。 少女は、どう考えても答えが出ないであろう問題を考え続けていた。  堂々巡りに終止符を打ったのは、窓にコツンと当たった小石だった。少女の顔より少し大きい程 度の窓から顔を覗き込ませたのは、木登りの少年――ルピナスだった。  少女はあっ、と大きな声を上げそうになって、寸でのところで堪えた。頭の中は驚きと疑問で一 杯だった。 「どうして、ここに?」  少女は窓を開けて、ルピナスにそう訊いた。ルピナスは窓の前で腹ばいになって、楽な姿勢で会 話出来るようにした。 「きいてなかったから」 「何を?」 「名前。きいてなかったから」  確かに少女はルピナスに名前を教えていなかった。 「…それだけのために?」  呆れたような、嬉しいような――複雑な感情が少女の胸に訪れた。少なくとも、嫌ではなかった。 ルピナスの顔を見ていると、全てを忘れられたからだ。理解に苦しむ母親も、貴族という身分も、 ルピナスの前では何も関係ないように思われた。少女とルピナスの関係は、ただ一緒に木登りをし た、友達に過ぎないのだから。 「ぼくが名前おしえたのに、おねえちゃんがいわないのはずっこいでしょ」 「…うん。だけど、ルピナスはここに来て大丈夫なの? 怒られてしまわない?」 「だいじょぶ。せんせいはね、お昼寝の時間でみんなと一緒に寝ちゃってるから。ぼくはかかんに もせんせいにかこまれた間をぬってここまでたどり着いたんだ」 「…そう」  ルピナスの勇気を知り、少女は自分が恥ずかしくなった。ルピナスにも恐れはあっただろうに、 それを物ともせずここまで来た。名前が知りたいと、それだけの理由で。それに引きかえ、何も抵 抗せずこうして閉じ込められた自分。覚悟を決めたといえば聞こえは良いものの、結局甘んじて受 け入れてしまっただけのことだったのだ。そこには勇気などなく、あるのは諦念だけだった。少女 は、初めからどう足掻いても母親には敵わないと諦めてしまっていたのだ。  ルピナスには威張る資格がある――そう思いながら、少女はルピナスの得意満面を見ていた。見 れば見るほど、可愛らしい顔をしていた。こんな弟がいたらどれ程幸せだろうと、少女は思った。 「でも、このでっかい家のどこにいるかなんてわかんないから、ぜんぶ窓見てみようと思って。下 のほうから見ていこうと思ってたら、いちばん最初の、こんな地面の近くの窓にいたなんて! こ こがおねえちゃんの部屋なの?」 「…そう、ここが私の部屋。おあつらえ向きの部屋よ」 「ここだったら、ぼくらの部屋のほうがいいけどなぁ」 「そうかもね――ストケシア」 「すとけしあ?」 「私の名前。覚えてね、ルピナス」  少女――ストケシアに、笑顔が戻った。ほんのささやかな笑顔だったけれど。 W 「まだ閉じ込めているのか? 夕食も与えずに?」  寝室。ストケシアの父コリウスは、いつものように隣にいる妻に一言言ってやろうと思っていた。 君はやりすぎなんだと教えてやろうとしていた。懲りることなく―― 「オリエンタ、君の教育は、私には教育だとは思えない。真の教育とは、押し付けではない。いい ことならいいこと、悪いことなら悪いことと、子供に自然と考えさせることこそ教えだ。それを君 は、まるでサーカスの調教師のように強制的な方法で――」 「…煩い」  コリウスの口の動きが止まった。いつもの光景だった。オリエンタの不機嫌そうな声は、コリウ スを凍りつかせてしまう。元々立場が違うのだ。コリウスはあくまで、グロリオーサ王国の中に存 在する貴族の平均より"やや上"の家系に過ぎない。いかに現在のオリエンタが"その程度"の貴族の 妻という立場に"身をやつしている"とはいえ、元は王族の家系である。コリウスとははっきり格が 違う。そう、あまりにも違いすぎた。  ――それでもコリウスは、夫として自尊心を保つために、明らかに心のどこかが破損している妻 の間隙を、度々突こうとしてしまうのである。オリエンタは隙だらけで、しかしそれでも決して中 流貴族などには屈しない女だった。何度敗れても懲りずに挑むコリウスのしぶとさもなかなかのも のではあったが、それでも効果的な反撃は出来なかった。オリエンタを自分色に染めることは出来 なかった。 「…いや、オリエンタ。私はあくまで正しいことを述べているつもりだよ?」 「"王を継ぐ者"に度重なる失敗が許されて? 自分で考えさせる? 違うわ大人が正しい道へ導く のよ。タダの子供ならば貴方のやり方でもいいでしょうよ。だけれどストケシアはいずれこの国を 統べる存在とならなければならないの。それが正しい道常道よ」  オリエンタは、歪んだ声で一気に言い切った。何度も何度も、コリウスに向かって吐き捨ててき た言葉だったので、澱みは全くなかった。  そして、オリエンタはこう結ぶ。いつものように―― 「かつて私もそうやって育てられてきた――"王家の内側"で」 「ここは、王家じゃない」 「私は王家の人間だから王家しか知らないしそれ以外の者に変わる気もないわ。私が私である以上 私が存在している以上ここは王家以外の何物でもない」  コリウスには、オリエンタの言うことの何一つとして現実を感じることが出来なかった。自分の 娘がこの国に君臨する女王となるなど想像さえつかなかったし、実際として自分のような貴族と婚 姻関係を結んだにも関わらず、未だに皇女時代の生活に妄執しているオリエンタに対しても、時に 荒唐無稽な物語の登場人物であるかのような非現実性を感じていた。そう感じられるだけ、コリウ スはまだ平民の感覚を持った貴族であった。 「ストケシアには王になる資格がある。現女王――ノウゼンハレンが子を成せない身体である以上 第二皇女たる私の子が王になるのは必然でしょう? 誰も異論を持つはずなどないわ」 「…わかった、わかったよ。君の考え方が正しい。そうだな、ストケシアは、将来の王国を背負っ て立つ存在になる――そういうことなんだな」  そうしてコリウスは、極めてぎこちなくオリエンタに歩幅を合わせた。 「そういうことよ――ところで貴方、"例の話"はどこまで進んでいるのかしら?」 「養子を取る話か? 忘れてはいないよ」  コリウスはベッドから立ち上がり、窓際で煙草を燻らせた。 「――孤児院と話はしている」 「…孤児院?」 「それしか当てがないんだ。仲間内も探ってはみたのだが」  ベッドからオリエンタの溜息が聞こえたが、コリウスは振り返らなかった。夫婦仲は冷め切って いた。ストケシアが生まれてから数年は、義務的な生殖行為を演じはしたものの、結果の出る兆候 が全くなかったことから、もう二人とも自前でストケシアの下を用意するのは諦めていた。 「…ストケシアの将来を考えれば、下の者の面倒を見ることによって情操教育をするのは良いこと だろう」 「それは私もそう言った……仕方ないわね。背に腹は代えられない」  オリエンタにとって、孤児院から養子を取るというのは考えうる中でも最悪の選択肢だった。し かしそれでも――最下級の子供であっても、受け入れるしかないと考えていた。 「ノウゼンハレンも私という妹を持ったからこそ今では国民に全幅の信頼を置かれる女王になれた の――ストケシアにもそうした過程を追わせることが必要」  よく言う、心の中で笑うコリウス。ノウゼンハレンが、この破綻者の面倒を見ていたからこそ立 派な女王になれたというのだろうか? 本当にお笑い種だと、コリウスは二本目の煙草に火を点け た。 「…その子は、男だ」 「男でも女でも構わない。ただ、その中で一番まともなのを連れて来ればそれでいいわ」  その言葉を聞いてコリウスは安心した。もし頑なに妹を取ることを要求されたら困ると思ってい たのだ。彼は息子を求めていた。純粋に、男として、男を育てたかった。木登りが出来るような、 元気な子がいい。オリエンタが興味を持っているのはストケシアに対してだけだ。養子に来る子は、 孤児院にいるより自由で快適な生活を送れるかもしれない。 「…果たして、掃き溜めに鶴がいるかしら」  侮蔑の感情を込めて、オリエンタは言った。コリウスは煙を窓の外に吐いてから、火を消した。 【ストケシアとルピナス/了】