男は目を瞑っていた。それでも筆は一定のリズムで踊り、カンバスの中は急速に埋まって行った。  ――目を瞑ると、まるで深い闇の中で迷子になったようだ。 「…闇の中だ……」  ――生涯、妻も、子も、持てないだろう。俺の生は闇の中だ。だが、この闇というのは――  灯りのない室内で、画家は、真黒な絵を描いていた。そして、筆が止まった。  画家は、ゆっくりと、ゆっくりと、目蓋を開いた。 「…コスモス……宇宙だ、これが……」  黒一色で描かれた、それは人物画だった。 「…俺は、死ぬまで貴女を描き続け……死んだら、一緒になれるだろうか? 心も、立場も、闇に 溶けてしまうだろうか……」  ――ノウゼンハレン。  そう呟いて、画家は部屋を出た。 「あの絵、売れたよ、兄さん」  画家の読書中、男が部屋に入って来た。 「…シルフィウム」 「結構いい値が付いた。だけど勿体ないなぁ。題が付いていればもっと高値で売れたのだけど。輸 送代金も引かれてるから、半額くらいだよ、これ」  読書している机に、シルフィウムは金の入った封筒を置いた。中身の重そうな音がした。画家は、 実際に売れた額より中に多く入っているのではないかと訝ったが、言わずにおいた。 「…題などない。あれはタダの女の絵だ。それに、国内に絵は置かないと何度も言っているだろ う」 「意地張っちゃって〜。ボクには解る。兄さんの描く女は、一人だけだしね。兄さんの中じゃあ、 女王ノウゼンハレンは今でも若い娘のままなのかい?」 「……」 「そんな絵ばかり描いているのが知られると恥ずかしいから、輸出品としての絵しか描かないのか い?」 「…………」 「あああ、黙っちゃったよ。全く、いつまで経っても兄さんは〜」  シルフィウムは、兄である画家とはまるで異なる種類の人間だった。人間嫌いが祟って家に籠も りがちな兄。対して、科学者として数多くの注目される発表をしている弟。素早く考えることが苦 手な兄、頭の回転が速く、交渉事も得意な弟――  有能ゆえ多忙なシルフィウムは、兄のことを見捨てはしなかった。 「ボクは別に、家族だから兄さんのことを気にかけてるワケじゃない――兄さんがボクの役に立つ からこそ、困窮してもらっては困るのさ」 「…だから、実際より多く金を入れたりしているわけか?」 「ヤダなあ。んなワケないじゃない」  シルフィウムは、兄の疑問を軽くかわした。 「それより、今日の本題だ」  シルフィウムの顔つきが変わった。真剣な話をする時、弟の顔はこうなるのだと、画家は何度も 見てきて知っていた。 「今ボクが研究しているテーマ――カンタンに言えば、"人でないモノを人にする"ことだけど、よ うやく上手いこといきそうでね。そろそろ、本格的に原寸大の人型で試してみたいと考えているん だ」 「…人間は人間だろう。人間でない存在を人間に出来るはずがない。お前のやっていることは不毛 だ。何にも繋がらないお遊びだ」 「キツいなぁ。でも、兄さんの作っているノウゼンハレンの人型も、"何にも繋がらないお遊び"だ。 このままではね」 「…お前の研究と合わせれば、そうではなくなると?」 「飲み込みが早いね、今日は」  最後が余計だ、と画家は思ったが、やはり言わずにおいた。 「…だが、駄目だ、あれでは、不完全だ……あのまま、もしお前の言うとおり"もどき"として動き 出し、言葉を語るのだとしたら、余りにも無様すぎる」 「そうかなぁ、十分若い頃のノウゼンハレンに似ていると思うけど」  覚えてもいない癖に―― 「…とにかく、使わせん。あのままでは……」  金の入った封筒を手に取り、画家は立ち上がった。室内にはシルフィウムが独り残された。 「画家であり、技術者。天才――か。面倒臭い人だ」  溜息をついたあと、シルフィウムも部屋を出た。 「天才は、気乗りしないと何も出来ないからねぇ」 【天才とストケシア】