U  彼女はこの時、人生で初めて、生きる喜びに触れていた。しかし、この喜びは同時に、彼女のこ れからの人生にとって、暗い影を落とすことへと繋がっていくのである。冷静に考えれば、それは 解るはずだった。  喜びは、ストケシアから最低限のモラルを奪い去っていった――  画家は街を行く。ウンザリした顔で歩いている。  この国――グロリオーサは、確かに繁栄を極めている。それは、この国の既得権者にとっては今 更口に出すまでもない共通認識であるし、幸運にも既得権者の子として生まれついた幼子でさえ、 大人にわざわざ言われずとも、自分達が恵まれていることを当然の如く理解している。  画家には、それが面白くなかった。この国は、腐り、既に朽ち始めている。街を歩けば、綺麗な 格好をした貴族と思われる大人と、その子供の満ち足りた笑顔が嫌でも視界に入る。その一方、道 の端では、まだ十にも満たない子供が物乞いをしている。二つの現実が違和感なく同居している。  貴族の喜びは、画家にとって汚れて見えた。ノウゼンハレンが治めるグロリオーサ王国が、何故 こんな風になってしまったのか――現実と理想のギャップを直視することに疲れた画家は、滅多に 家を出ないようになっていた。数ヶ月振りの外出は、現実が着実に悪化の一途を辿っていることを 改めて確認できただけだった。画家のしかめ面は、コーヒーの苦さによるものではない。  もちろん、画家がわざわざ、目を背けたいものばかりの外に出てきたのは、単に嫌な思いをした いからではない。オープンカフェから街行く人間を観察するためだ。ノウゼンハレンの人型を"完 成"させるために、足りないピースを埋めようと考えたのだ。画家にとって、「女王ノウゼンハレ ン」は、すなわち「完璧な女性」に等しい。より完成度を高めなければ、"もどき"にすらなれはし ない。進んだ時代が生み出したあだ花で終わってしまう。見目麗しいだけではなく、心も美しくな くては――  しかし、そんな「完璧な女性」がそう簡単に見つかるわけもなく、画家のコーヒーはすでに三杯 目となっていた。  画家はふと、目を閉じた。目を閉じれば宇宙が見える。そして、その宇宙の中心には、女王が凛 として立っている。その姿は、何十年も前からずっと変わらなかった。現実のノウゼンハレンは年 相応になってきているようだが、画家の宇宙の中でのノウゼンハレンは、一度謁見がかなった、あ の鮮烈な印象のまま、今もある。  ――そうだ、その時、俺は言ったのだ。いつか、貴女の人型を贈ると……その誓いを、一刻も早 く果たさねば。  画家は目を開いた。  開いたその目に映ったのは、ノウゼンハレンの生き写しのような姿だった。  ストケシアの足取りは、春の風のように軽やかだった。表情は柔らかく、明るさに満ちていた。 視界の端にオープンカフェを捉えたストケシアは、吸い込まれるようにカウンターでカフェオレを 注文した。カフェオレを片手に持ち、空いている席を探すが、生憎誰もいないテーブルはなく、相 席を選択するしかなかった。 「座らせていただいて宜しいですか?」  ストケシアはにこやかな笑顔で、対面に座るみすぼらしい風貌の男に声を掛けた。男は声を出さ ずに頷いた。ストケシアは椅子をずらして、座った。  飲み物を口に含み、緩やかに喉へ流し込んだ。男の熱い視線には気付かなかった。 「…はぁ」  思わず漏れた吐息に、ストケシアはハッとした。幸せな出来事の余韻が、身体を支配しているの だと気付いた。 「…何か、嬉しいことでもあったのか?」 「え?」 「…そんな気がした」  対面の男は、そう言って三杯目のコーヒーを飲み干した。ストケシアは、頬を赤らめて答えた。 「…はい。ただ、ここでは詳しくは言えませんけど。こんなに人が多いところでは……恥ずかし い」 「…俺は、絵描きだ」  ウェイトレスが、空になったコーヒーカップを運んで行ったが、そちらには一瞥もくれなかった。 画家は、ストケシアが対面に座ってからずっと――いや、目に映った瞬間からずっと、ストケシア しか見ていなかった。 「…もし、良ければ、これから、君を描かせてくれないか?」 「え、私なんて描いて……どうするんですか?」 「…どうするも何も、描きたいから描かせて欲しいんだ。それだけだ。頼む……君を描きたい」  画家は懇願した。汚い見た目とは裏腹な澄んだ目に、ストケシアは揺り動かされた。 「私でいいのなら、それが貴方の役に立つのであれば……喜んで」 「…ありがとう」  画家は、喜んでいるような、ホッとしたような顔になった。 「こちらこそ。絵にしてもらうなんて初めてのことだから、嬉しいです。あっ、名前を言うのがま だでしたね……私は、ストケシア。よろしくお願いします」  ――ストケシア。美しい名前だ……  画家は短く目を閉じた。  ノウゼンハレンしかいなかった宇宙に、もう一人の訪問者があった。二人はよく似ている。瓜二 つと言ってもいい。  画家は目を開いた。 「…俺は……ラケナリという。知らないだろうが……君の時間を、少しの間貸してくれ」  画家――ラケナリは、ストケシアに握手を求めた。ストケシアはすぐにラケナリの手を握った。  これより一ヵ月後――自分はこの男に殺されるのだ、とは思わずに。