【アイゼンリリーと巨人の絵】 T  眼下に広がる大海原。  アイゼン=リリーとゴレムは、海を往く。 「…ええ、段々思いだしてきたみたい」  リリーは弟の頬に耳を当てながら言った。  ゴレムの“声”は、内に籠もっている。  リリーは体に耳を当て、それを聞き取っている。 「海ばかりね……ゴレム、足、冷たくない?…大丈夫? ならいいけれど」  リリーは四方八方見渡しているが、クレマチス諸島から離れた後は、 小さな陸地一つ見ることがなかった。  リリーは、心の仄暗い部分で、静かな、恐怖と似た感情を抱いていた。  このまま、どこにも辿りつけないのではないだろうか?  戻って、ずっとあの場所に留まっていた方が、いいのではないだろうか?  そんな思いが渦巻いて、リリーの体は小刻みに震え出した。  そんな中、ゴレムはリリーに言った。 「…えっ……海底の形が……? そう、もうすぐ着くの……あなたが言うのなら、 間違ってはいないのよね」  ゴレムの言葉を聞き、リリーの震えは治まった。 “大丈夫、もうすぐ着くよ、おねえちゃん”  ――ゴレムは、大体このようなことを言ったのだろう。  ゴレムは巨大な土人形だが、その心は少年である。  姉思いで動物が好きな、やさしい少年。リリーはそんなゴレムを愛していたし、 ゴレムもまたリリーを愛していた。  リリーは空を見た。綿飴の様な雲が浮かぶ、のどかな風景。鳥は群れを成して 軽やかに躍るように飛んでいる。  島を出て、よかったかもしれないわね。ふと、リリーはそう思った。 「ゴレム、あなたはいつ目覚めたの……ずっとずっと昔? そう……待っていて くれて……」  リリーの言葉はそこで一旦止まった。島だ。 「…ゴレム。やっぱり、あなたの言うことに間違いはないのね」 「あなたは隠れていた方がいい」  海岸、リリーはゴレムの足を撫でながら言った。 「島に住む人間に見られたら、きっと大騒ぎになるもの……御免ね」  リリーはゴレムの足に耳を当てた。ゴレムはリリーに言った。 「…御免ね、寂しいだろうし、寒いだろうけど、海に隠れて待っていて。 身を隠せる大きな山でもあればいいのだけれど……」  傾斜のない、全体に平らな島であった。 「…大丈夫? あなたはいつもそう言うのね。うん、強い子。早めに 戻ってくるからね――」  寂しげなゴレムの声に後ろ髪引かれながらも、リリーは森へ向かって歩きだした。 ゴレムはリリーの姿を見送ってから、海に潜った。  森を抜けたリリーは、突如現れた別世界に圧倒された。 「なあに、ここは……」 【ロドン】と書かれた大きな立て看板。  リリーが圧倒されたのは、そのあまりに個性的過ぎる、街に立ち並ぶ建築物 たちだった。  斜めに傾いている大木の幹のような家、外壁が草の網込みでできているパン屋、 そして、地面から浮いて見える建物―― 「私のいた島とは、全然違うのね」   リリーは、ロング・スカートのレースの裾が地面に着かないようにちょんと 持ち上げながら、浮いて見える建物の、ぽっかりと空いた空間を凝視した。  よく見ると、そこには何もないわけではなかった。地面と同じ色の柱が四本、 しっかりと存在し ていたのである。 「不思議ですか? 黒づくめのお嬢さん」  背後から男の声がして、リリーはそちらを振り返った。 「いえ、もう分かったわ。柱が地面と同化して、そこにあると一見では分からない ようになっているのよ」 「そう。一見しただけでは、まるでこの家が地面から浮いているように見える。 まあ、建築家の遊びですな」  男は、握手の手を差し出してきた。 「はじめまして、私はシラー。オーク美術館の館長などさせて頂いております」  リリーは、その握手に応え、 「私はリリー。アイゼン=リリーよ。さっき、たまたまこの島に辿り着いたの。 この島は、ロドン、というのよね」 「ロドン? いいえ、それはこの街の名前で。島の名前はバーベナですよ」  シラーは、握手の手を離して、 「他の場所から来るお方というのは珍しい。しかもそれが、こんなにも美しい お嬢さんということだと、これはもはや空前絶後の出来事ですな」  シラーは、リリーの美しい灰色がかった黒髪と、スーツの上半身に開いた 胸元の白い首飾りを見ながら言った。 「この街は、見ての通り建築が大きく発達しているのですが、それと同じくらいに 絵画も発達しているのですよ。建築・絵画の二つが中心なのです」  掛けているメガネをくい、と上げ、シラーは言った。 「私の美術館では、貴重な絵画を多数展示しています。どうぞ、今からでも お越し下さい。なに、入場料など取りはしません。美しいお嬢さんから小銭 を取っては笑われます故」  笑いながら、着いてきて下さい、とリリーに背を向けて歩き出したシラー。 嫌悪感を覚えながら、リリーもまた歩き出した。この島のこと、世界のことを知る為に。 「…このように、グロリオーサ・キチン期の絵には、貝殻を細かく砕いた 粉末を混ぜた絵の具が使用されており、その光沢は他の時代の絵とは一線を 画するものです――こちらはグロリオーサ・マッシュ期のもので――」  オーク美術館ではシラーの蘊蓄が垂れ流されていたが、リリーはそれを半ば 聞き流して、自らの興味の赴くままに、自分の感性で、自分の選定で、楽しく 絵を眺めていた。  整然と並ぶ絵画の中で、特にリリーの目に留まった一枚があった。 「シラーさん」 「きのこの菌類細胞が――なんでしょうアイゼン=リリー?」 「この、くすんだ絵はなに」  リリーが指差したのは、キャンパスの大部分を黒が占める、おどろおどろしい 雰囲気の絵だった。 「ああ……これは、グロリオーサ王国最後期に描かれたものですね。記録では、 『ジャイアント=ステップ』一週間前にこの島に輸入されてきた、とあります。 歴史的には意義のある、貴重な絵ですが……私自身は、あまり好きではない」  シラーはそう言って、溜息をついた。 「この黒で描かれたものは?」 「特定は未だされていません。しかし、一説には、『ジャイアント=ステップ』 を引き起こした元凶たる巨人を描いたもの、と言われています」 「巨人」  リリーは、すぐにゴレムのことをイメージした。しかしそれがネガティブな ものだったので、すぐに頭から切り離した。 「そうした絵の背景については、“批評家”に訊くのがベターですよ」 「批評家?」 「芸術が育つということは、見る側もまた育つということです。この美術館にも、 お抱えの批評家が多数揃っております。この絵に関するより正確で深い歴史が 知りたいのなら……ギャラは無料からで、高額な者では……」 「無料の批評家をお願い」  遮るように、リリーは言った。  そんな即答で、と言いたげにシラーは苦笑い。しかし気を取り直して、 「…無料の者は、三人おります。皆有料の批評家より劣りますが、中でもセロス という男はやめた方がいい! 奴は異端中の異端、物珍しさで契約しましたが、 今年度でもう契約も打ち切ろうと思っているのですよ」 「分かったわ。そのセロスという人で御願い」 「…………」  シラーは、絶句した。  その日の夕方、リリーはセロスの家の前に立っていた。  セロスの家は、この街の奇抜な建築物の中では、相当に地味な――というより 安価な――もので、むしろ珍しく見えた。  リリーは、扉をノックした。 「セロスさん、アイゼン=リリーです」  そう言ったあと、すぐに扉が開いた。 「…女か。まあ、名前からしてそうだろうとは思ったが……」  扉が開いた瞬間、刺激臭が鼻を突いた。リリーは臭いに対する耐性が強く出来て いるが、それでも多少顔をしかめた。  セロスは、見た目三十路前の男だが、顔は髭で覆われており、髪も伸び放題に していて、とても女性にもてそうな風体ではなかった。 「今月初めての仕事だな……まあ、入ってくれ」 「失礼します」  リリーは中に入って、今度は部屋のあまりの散らかりっぷりに目を丸くした。  ゴミ、本、食べかす、タオル、服、そして絵――全てが乱雑に混じり合い、 しかも全く調和していない。それは稀有な風景だった。 「こんなところでも、人間は生きていられるのね」  心底感心した顔で思わず呟いたアイゼン=リリー。 「おい」  と、セロス。 「…まあ、いい。時間ももう遅いしな……ヨソの人だから、今夜は民宿にでも 泊まるんだろう? まあ、早く終わらせたほうが、いいんだろう」 「その前に、訊きたいことが二つあるの」 「訊きたいこと? それは、まあ、俺に答えられることならいいが……」  セロスは「まあ」が口癖のようである。 「多分、答えられると思うわ。この世界では常識のようだから――」  リリーは言った。 「『ジャイアント=ステップ』について、詳しく教えて」 U 「…なに?」  アイゼン=リリーの質問を聞いて、呆気にとられた顔をしたセロス。 「そんな、子供でも知っているようなことを?」 「この世界では常識なのでしょうけど……本当に、私は知らないのよ。まだ、 何も――」  セロスは、頭を掻いた。フケがぽろぽろと舞い落ちた。 「寓話にもなっているようなことなのにな……まあ、なんだ。この世界は、 一度滅びたんだよ。遥か昔、4体の巨人が突如として現れた。どれ位の時間 争ったかは分からないが、とにかく、そいつらは迷惑なことに人間の住む場所で 同士討ちを始めたわけだ。それこそ、世界のあらゆる島々を転戦してな―― 巨人は、その強力な戦闘能力で、多くの島々を沈めた。運よく沈まずに残った、 この島のようなところも、幾つもの“巨大な足跡”を刻まれ、酷く痛めつけられた」      リリーは、昼間からの疑問をセロスにぶつけた。 「グロリオーサ……という国は、その、『ジャイアント=ステップ』によって 沈んだの? 美術館の、シラーという人は、そのようなことを言っていたけれど」  ああ、このアイゼン=リリーという娘は、本当に何も知らないのだ……セロスは、 全てを悟ったような顔をして、 「…グロリオーサ王国はな、まあ、『ジャイアント=ステップ』前の超大国だ。 グロリオーサの繁栄ぶりは凄まじく、様々な技術が現代とは比べるべくもない 程に発達していたという。まあ、この島も過去には書物・絵をはじめとした多く のものを輸入していた。こちらには輸出するようなものは、橙百合くらいしか なかったそうだが」 「橙百合?」 「グロリオーサの貿易官がそう名付けたそうだ。本当はこちらが名付けた別の名前も あったらしいが……正確には、百合ではない別の花だったが、まあ、よく似ていた そうだし、百合はグロリオーサの国花ということもあって、無理矢理百合ということ にして、本国に流通させていたらしい。今はもう、橙百合も絶滅してしまったがな」 「それも、『ジャイアント=ステップ』のせい?」  セロスは頷いた。 「橙百合は、弾力性、柔軟性、そして耐久性を兼ね備えた、素晴らしい茎を持っていた。 たとえばこのペン。これは、橙百合の茎を束ね合わせて加工したものだ。数百年前の品 だが、今でもこうして実用に足る。持ってみるか」      リリーは、ペンを手に取った。ペンは力を込めると、ぐに、と曲がった。それが 面白くて、リリーは何度もそれを繰り返した。その内に、あることに気付いて、背中の ル・レーブを取り出し一度、二度と軽く振った。 「…同じ」 「ん」 「セロスさん、これ」  リリーは、セロスにル・レーブを渡した。セロスの顔付きが変わった。 「こりゃあ……アイゼン=リリー! お前、なんだこりゃ……?」 「橙百合って、この島以外には、確かに存在しないのでしょう?」 「まあ……間違いない、はずだが……驚いたな」  セロスはまじまじと、ル・レーブを見た。 「…橙百合で出来ているに違いないな、この竿は」 「つまり――」 「グロリオーサで製造された、ということになるなあ。この島じゃあ、釣竿になんて 加工されはしなかったはずだ。記録にない。それに、貿易関係を結んでいたのは、 グロリオーサだけで、他国に橙百合が出回るなんてことはほとんどなかったはずだ」  それが一体何を意味しているのか――リリーの頭に、様々な推測が浮かんでは、 すぐに押し出されてゆく。 「…アイゼン=リリー。お前は、随分と面白いなあ。不思議な女だ。まだ見たところ、 17,8というところだろうに。あまりにものを知らなかったり、かと思えば、 こんな逸品を持っていたり……ううん、不思議だ」 「…私も、自分自身が不思議だわ」  無理矢理笑みを作って、リリーは言った。 「まあ……どうだ、疑問は解消できたか」 「ええ、当初に感じていたものは、ね。色々聞いたら、余計に増えてきてしまった けれど……」  疑問は山積していた。しかし、それがこの場で氷解するものではないという ことも、リリーには分かっていた。 「まあ、もう日も暮れた。本題に入ってもいいか」  本来の目的は、絵の解説をもらうことだった。リリーは頷き、傍らに置いていた 包みを開いた。 「ああ、この絵か……」  昼間見た時より、絵は不気味に見えた。室内の光が薄く、暗闇が絵に染み込んで、 黒をさらに際立たせた。 「アイゼン=リリー」  セロスは、リリーの三白眼を見つめながら言った。 「お前、なかなか見る目があるじゃないか」 「え」 「この絵には、お前の知りたい情報が詰まっているかもしれないぞ」 「…じゃあ、これは」 「グロリオーサ最後期を代表する画家・ラケナリの作品だ。ラケナリは自らの絵を 自国内には置かず、国外に放出することで有名な作家だった。まあ、作品を 国外にも知らしめたかったのか、真相は闇の中だが、まあとにかく、この絵は なにかの運命でここにやって来たわけだ。もしかしたら、ラケナリ最後の作品かも しれない」  リリーには、既に分かっていた。訊くまでもなく。  ここに描かれているのは、もはや疑いの余地もなく―― 「…巨人」 「まあ、間違いないだろう。ラケナリは、生まれ育った国が巨人達に蹂躙されるのを、 何としても記録しておこうと思ったんだろうな。実際、繊細な筆致が特徴である ラケナリ作品としては荒いタッチで描かれているし、批評家の中にもこれがラケナリ 作品だと知らない人間も僅かながらにいるくらいだ。情けないことだが」 「私は絵のことなんて分からないけれど、この絵が目に留まったの。不思議と、この絵 だけに――」 「…まあ、それがお前の運命だよ。アイゼン=リリー」  セロスは、腕まくりをして、壁に巨人の絵を立て掛けた。そして、その前にリリーを 立たせた。 「何をするの?」 「ここからが、俺の本当の仕事だ」  セロスは両手を合わせ、合わせた掌をリリーの腹に当てた。 「絵の表面に軽く触れるんだ」 「…何を、しようとしているの」 「俺がオーク美術館とプロの批評家として契約を結べた理由、そして仕事料無料、 月の仕事平均一件の理由……全てひっくるめて、この力のせいだ。でも、俺には これしかない。これが俺のアイデンティティであり、スタイルなんだよ…… アイゼン=リリー、今からお前を、この絵の中に“飛ばす”。嫌ならそう言え」  セロスは大きく息を吸い込んだ。  リリーは全てを飲み込んだ。 「私はこの世界のことを、何も知らない……だから、全てを受け入れる。そうでないと、 何も掴み取ることはできない。知る人間からすれば不思議なことでも。だって私は 知らないもの」  セロスの口元が緩んだ。そして、一気に息を吐き、力を伝えるように、リリーの臍を とん、と押した。 「気をつけて、行って来い!」  部屋の中は、セロス一人になった。 「…アイゼン=リリー……」  セロスは呟いて、巨人の絵をじっと見つめていた。 V  空は、充満する煙でぼやけて見えた。  数十秒間隔で響き鳴る大地。  アイゼン=リリーは、地震のような震動で目を覚ました。 「…この臭いは、なに」  リリーの鼻は、今まで嗅いだことのない、それでいて、どこかで知っているような 臭いを嗅ぎつけた。  リリーは辺りを見回した。  ――積もっている。  それは、大量の死体だった。  天高く積まれているそれに、火が点けられているのだ。  人肉を焼く。そしてそれに伴う異臭。周りの人間達は、皆、鼻を摘みながら 泣き顔になっていた。  その涙が、単に強い臭いによるものなのか、それだけではないのか――リリーには、 後者に思えた。  地震が止まらない。  リリーは、近くにいた、目に涙を一杯に溜めている少女の肩に手を置き、声を掛けた。 「ねえ、この地震はなに?」 「えっ、お姉さん、だれ……」 「私はリリー。アイゼン=リリーよ」 「…………」  少女は、声を上げて泣きだした。  きっと、あの山の中に自分の家族がいるのだわ、とリリーは直感的に思った。 「あっ」  リリーは、少女のまぶたを舐めた。  どうしてそんなことをしたのかは、リリー本人にもわからなかった。 「…なにするの?」  少女は、呆気にとられた顔をして言った。しかし、余りのことに、悲しみも 一時的に飛んで行ったようであった。  リリーはそれに答えずに、 「…これは、地震なの?」  少女は首を横に振った。 「巨人。巨人の、足音」 「…それは、どこにいるの」 「そこに、いるじゃない」  そこって――リリーは、少女の指差した方を見た。  遠くの方に、黒い壁があった。  黒い壁は、確かに、ゆらゆらと動いていた。 「突然現れて、へんな光線を出して、いっぱい家を焼いて……そしたら、ああして 帰って行ったの。私も、殺してくれればよかったのに」  黒の巨人。確かに、あの絵の通りだ、とリリーは思った。  追わなければ。 「有難う。でも、死にたいなんて思っては、いけないわ」  リリーは少女の頭をなでた。  そして、出来る限りの微笑みを作って、 「この世界のことを知らずに死ぬのは、勿体無いもの」  そう言って、黒の巨人を追う為走りだした。 「…こんな世界のことなんて……知りたくもないわよっ!」  少女は、段々小さくなってゆくリリーの背中へ向けて、叫んだ。 「お父さんもお母さんもいない、こんな世界のことなんて……もう……どうでも……」  そして、少女はその場に泣き崩れた。心配してくれる人間は、もう誰もいなかった。 W  巨人の一歩一歩は大きかった。  アイゼン=リリーがどれ程必死に走ろうとも、その距離は縮まるどころか 広がるばかりだった。 「このままじゃ、追い付けない……」  リリーは一度立ち止まり、斜め上を見上げた。  黒い巨人。  その顔は雲に隠れ、見通すことができない。  ゴレムより大きい、とリリーは思った。  リリーは、ル・レーブを取り出した。  周りは背の高い木々に囲まれていて、等間隔に並んだ木々は、この先どこまでも 続いて行くようだった。  リリーはル・レーブをしならせた。  弾力性のある竿と糸が木の枝に巻きついたのを確認し、リリーは後ろ側に跳んだ。 振り子のように、リリーは段々と勢いをつけていく。  そして、飛んだ。  リリーは、今までの何倍もの速さで巨人に近付いていく。  ル・レーブは、リリーの手足の如く動いた。  着地する寸前に、リリーは再度ル・レーブを操る。  木の枝に巻きつけ、勢いを継続したまま、さらに大きく、速く飛ぶ。  竿はしなる。  枝々を中継し、枯れた葉を落としながら、リリーは反動をつけて飛び続けた。  そして、遂に巨人の足が目の前に迫ってきた。  最後、リリーはこれまででもっとも勢いをつけ振り子を形成し、高く飛び上がった。  巨人の体にぶつかりそうになる。しかしリリーはここでもル・レーブを繰り、瞬時に 巨人の上腕部に巻きつけた。  巨人に追い付いた。 「ありがとう、ル・レーブ」  そう呟いたあと、リリーはもう一度、振り子になった。 「もう少しだけ、頑張ってね」  リリーは、上空に向かっていった。  雲をつき抜け、リリーは巨人の顔を目にする。  そして肩口に着地した。  だが、その瞬間。 「消えな」  何者かが、突然背後からリリーの背中を蹴りつけた。  不意を突かれ、リリーは巨人から落ちていった。 「…危なかった」  リリーは、またル・レーブに助けられた。  巻きつけた位置は、先ほどと同じ上腕部。  もし、この高さから地面に叩き付けられていたなら――丈夫なリリーといえども、 ただでは済まなかっただろう。  リリーは、ル・レーブの柄を撫でた。 「ふう。しかし、なんだったんだ、あの女……」  巨人の頭の上にあぐらを掻いていたのは、見た目小さな少年だった。 「人間が、どうやってここまで――またか」  少年は、再び肩口まで飛んできたリリーを目の当たりにした。  リリーは、三白眼に凄みを込めて、頭上の少年を見た。 「あなたが、私を蹴落としたの?」 「そうですがなにか?」  少年は仏頂面で言った。  そして続けて、 「へえ。なかなか美人じゃない」 「突然人を蹴り落すだなんて、あなた、ろくな子じゃないわね」 「俺はこいつを守らなくちゃならないんだ。自分以外は全て敵さ。勿論あんたもね」  リリーはそれを聞き、溜息をついた。 「寂しい子」 「なんとでも言えよ。ゴーレム! この女を振り落とせ! そして二度と上がって こられないよう握り潰してしまえ!」  少年の命を聞き、ゴーレムと呼ばれた巨人は大きく揺れ始めた。  リリーは大きくぐらつきながら、 「あなたが、この巨人に命令しているのね。人間を襲わせたのもあなた?」 「ああそうだよ。俺も、こいつも、そういうふうにできているんだから」 「…ちがう」 「…なにが?」 「誰しも、破壊のためになんて出来ていないわ。そんなことのために生まれてくる わけじゃない」  ゴーレムは、リリーを掴み取ろうとする。 「破壊のためになんて、絶対に――」  ゴーレムの手が止まった。 「おい、ゴーレム! 何してんだ! さっさとそいつを潰すんだよ!」  ゴーレムの手が動いた。  その手は、肩口ではなく、頭の上に向かっていった。  ゴーレムは、少年を掴み取った。 「えっ、なにを――」  ぐし、と音がした。  ゴーレムの握り拳から、赤い液体が滴り落ちる。  リリーは、震動の止んだゴーレムの肩口に、へたり込んだ。 『おい、アイゼン=リリー! アイゼン=リリー!!』  リリーの頭の中に、セロスの声が響いた。  リリーが目を覚ましたとき、一番最初に目にしたのはセロスの顎髭だった。 「大丈夫か? 無理しやがって……」  顎が動いた。リリーは起き上がり、言う。 「…私、いつの間に……」 「絵の世界に入り込みすぎだ。アイゼン=リリー」  セロスは言った。心配していたのか、表情には疲労の色が濃く見えた。 「…巨人は、悲しそうだったわ」 「…感情移入するな。絵というのは、不変だ。お前があの中で何を成そうが、絵は 変わらないし、中の世界は永久にループし続ける……まあ、そういうもんなんだ」 「…『ジャイアント=ステップ』……巨人達の、刻んだ、足跡……」  リリーは、そう呟いた。  世界を少し、身を持って知ることが出来た、気がした。 X  アイゼン=リリーが絵の世界から出てきた時、夕陽は既に沈んでいた。  夜の闇は、リリーの胸の奥にある不安を生じさせた。  ゴレム――  ずっと、海の中で待たせている、弟のことが、無性に心配になった。 「…戻らなければ」  リリーは立ち上がり、セロスの手を握って、 「ありがとう、セロスさん。あなたのお陰で、少し賢くなれた気がするわ」  そう言って、手を離し、小走りでリリーはセロスの家を出て行った。  セロスはリリーを呼び止めようとしたが、何しろいきなりのことであったため、 声が出てこなかった。 「アイゼン=リリー……森へ、向かっているのか」  夜の森は危険だ。  夜行性の、人を襲う動物が多く、道も荒れている。  1人で行かせるのは、危ない。  アイゼン=リリーを助けなければ。  …アイゼン=リリーを、助ける為に行くんだ。  セロスは、そう自分に重々念じて、別の、体の底から湧き上がってくる激しい感情に、 必死に蓋をしていた。  彼にとって、理由は、もはやどうでもよかった。  ただ、アイゼン=リリーと理想の別れ方をしたかったのだ。 「ゴレム。いる?」  昼間、リリーがこのバーベナ島に降り立った海岸。  ゴレムは、この海の底で寂しくしているのだろう。そう思うと、リリーの心は 激しく痛んだ。 「ゴレム? もう出てきてもいいのよ。ゴレ――」  足音と、息切れの音。  リリーは森の方を振り返った。 「セロスさん」 「…アイゼン=リリー……無事、森を抜けたようだな」 「私、夜目がきくみたい」 「そうか……まあ、俺は、ここに辿り着くまで4回転んだよ。地元民なのにな……」  それを聞いて、リリーは少し吹き出した。 「おかしいか」 「御免なさい、少し」 「少しか……そうか」 「ふふふ」 「ははは……!」  セロスは嬉しかった。  アイゼン=リリーが笑ってくれる。  俺などを見て、笑ってくれる―― 「…アイゼン=リリー」 「何?」 「これを持っていけ」  セロスは、丸まった古びた紙をリリーに手渡した。 「これは……」 「地図だ。グロリオーサから輸入したもの――つまり、『ジャイアント=ステップ』 以前のこの世界のかたちを記録したものだな」 「…地図」 「赤で囲んであるところがあるだろう。そこが、この島だ。ここから西へ向かうと、 かつての大大陸・ロべリア大陸にぶつかる。今はどうなっているか分からないが、行く術 があるのなら、行ってみるのもいいんじゃないか。ここに遺された歴史とはまた違うものが 見られるだろう。そして、できれば、いつか……」  この先は、言えなかった。 “いつか……この島にまた来て欲しい”  セロスには、それが言えなかった。 「いつか……何?」 「…何でもないよ。ただ、お前は興味深い女だったなあ、とね」 「その言葉、そっくりそのままお返ししたいわね。あなたのその格好、そして能力。 ふしぎよ」 「有難う……って、褒め言葉なんだろうか」 「それは、あなたの心のまま」 “このまま、ずっと残ってくれないか” “お前がコンビを組んでくれれば、俺は無料の批評家じゃなくなる” “絵の中をナビゲートしてくれる存在が欲しかった。お前はうってつけだ” “それに……お前は魅力的で、美しい……”  ――来る前に言おうとして考えていたことの、何一つ出てこなかった。 「…じゃあ、行くわ」  リリーはそう言った後、 「ゴレム!」  海が、割れた。  現れたのは、土巨人。  巨人に表情はなかったが、リリーには分かった。 「寝惚けてる……今まで、眠っていたわね?」  リリーはル・レーブを振り上げた。  糸は肩口にかかり、リリーの体を瞬きする間に巨人の肩の上に運んで行った。  巨人の名はゴレム。アイゼン=リリーの弟である。  セロスは、海岸に尻餅をついていた。  体も声も震えていた。 「…巨人……!」 「またね、セロスさん」 “またね”――  またね?  …また、逢えるということか!?  セロスは立ち、大きく息を吸った後、堰を切ったようにしゃべりだした。 「アイゼン=リリー! お前はもしかしたら絵の中で見たことを唯一無二の真実だと 信じているかもしれない! しかしそれは違う! 画家とは対象を描く際、自分の中で それを咀嚼し、別の存在に変換するものなんだ! だから、お前があの中で見た光景 全てが真実というわけではない! アイゼン=リリー! 全ての物事はそれと同じだ! 真偽入り混じるこの世の全てを、ありのまま飲み込んじゃいけないんだ! それさえ 分かっていれば、お前のその目はきっと物事の奥の奥まで見通せるようになる! アイゼン=リリー! お前は素晴らしい!」  セロスは、どんどん離れて行くリリーに聞こえるよう、大声で叫んだ。  そして、闇に紛れて見えなくなった。 「…巨人……まさか、いや、しかし……なんて不思議な女だ、アイゼン=リリー」  セロスは、家を出る寸前、リリーに握られた手をじっと見た。リリーの手はひやりと していて、血が通っていないようだった。  それならばと、セロスは懇願した。  俺が、アイゼン=リリーの手を鉄のように冷たいと思ったのと同じように、アイゼン= リリーも、俺の手を暖かいと思っていてくれないだろうか――  アイゼン=リリーは、ゴレムの肩に寝転がり、じっと手を見ていた。  熱かった、セロスの手。  ということは、多分、私の手はとても冷たいのだろう。リリーはそう思った。 「ゴレム、この方向にずっと歩いてね。そうすれば、きっと何かにぶつかるわ」  リリーは、ゴレムの肩に耳を着けた。 「本当に御免ね、ゴレム。次は、あなたの身を隠せるところがあるといいのだけど」  ぼくは大丈夫だよお姉ちゃん――ゴレムは、凡そそのようなことをリリーに伝えた。 「また、強がって……え、深海魚と……ふうん、楽しそう。リズムに合わせて…… あなた、暇つぶしが上手いのね」  ゴレムは海の底で、そこの先住民たる魚達と戯れていたらしい。ゴレムが、 「こう動いて欲しい」  と言うと、その通りに動いてくれるという。  しかし、眠ってしまったのは、途中でそれにも飽きてしまったからだろう。 「でも――冷たいのは、嫌よね」  リリーはぽつり、呟いた。  もっと知りたい、リリーは思う。  あらゆることを知りたい。  そうすれば、そのうち、体を暖かくする方法も分かるかも知れない――  とりとめもないことを考えているうちに、アイゼン=リリーの意識は途切れた。 【アイゼン=リリーと巨人の絵/了】