X  アイゼン=リリーが目覚めた時、部屋はがらんとなっていた。  コルチが、いない。  窓は開け放たれていて、昨日の酒臭さは大分薄れていた。  リリーは、寝起き特有の疎らな意識を少しずつ纏めていった。そして、自分が昨夜、 この酒の匂いで眠りへと誘われたのだ、ということを思い出した。  匂いに対する――特に刺激に――耐性のあるリリーを眠らせるほど、強い催眠作用を 持つ、北陽樹の樹液の混ざった酒。  それでも、コルチは、眠れないと言っていた――  彼女は、狂気剥き出しの騒々しい夜、その渦中、ずっと独りで過ごしてきたのだろう。  リリーは、立ち上がり伸びをした。そして、部屋の隅に掛けられた黒のドレスを 手に取ろうとした。その動きは、テーブルの置き手紙を見て、中断された。 “     アイゼン=リリーへ     私は羨ましいと思った。     素直に、そう思った。     リリーの中にある記憶を覗いて、私は少し泣いてしまった。     その中には、優しそうな父様と母様がいて。     元気で、姉思いの弟も。     幸せそうに笑うリリーも、もちろんいた。     ――リリーの姿は別人のものだったけれど、記憶の中では自らの姿が違っている     というのはよくあることだから――     記憶は、忠実には残らない。願望や、心の苦しみ、悲しみで、如何様にも形を     変えられてしまうもの。     それでも、私は、心の奥の、一番脆いところを突かれてしまった気がした……     あの優しさは、真実だ。私の母様も、優しい人だった。姉様も、そうだった。     父様だって――私は、大事なものを全て奪われたの。     リリーが羨ましい。     記憶の中の家族の姿が、こんなに綺麗に残っている、リリーが羨ましい。     私は、少し、泣いてしまった。リリーが羨ましい……     独りにしてゴメン。私も、戦いについていかなければいけないから。     人殺しの現場に立ち会う度、歪んだ記憶が逆流してくるよう。     私はもう、いなくなってしまいたい。                                    コルチ                                        ”  それは、コルチの言葉だった。  リリーには、家族のいた記憶などなかった。ゴレムが弟だということは、当たり前 のように認識していたものの、それ以上の記憶はなかったのだ。  リリーは、父母という概念が理解できなかった。  育てられた覚えなど、全くない。 「…忘れているだけで、あの夢の女性はやはり私……コルチの言うとおりであるのなら、 私にも、父様と母様が――」  記憶は、全くなかった。  だが、コルチが嘘を言うわけもないとも思った。  リリーは、コルチのことを信用するようになっていた。  この島では唯一、信用できる人間になっていた。  それゆえ、リリーはコルチのことが気にかかってならなかったのだ。 「北東、ここから10分くらいの距離。敵300人くらい。その周辺に30、50、60人 くらいの集団が点在してる」 「そうか。なら――小せぇ集団から潰していくべきだな。奴らの規模から考えて、その 300ってのが大勢力だろう。俺はそこへ動く。第2部隊は、西の500の集団と当たれ! なあに、数じゃこっちが優位よ。もしてこずるようなら、俺の兵力を割って向かわせるから 安心しやがれ」  スナップドラゴン山賊団は、既にヤマガ山への侵入を果たしていた。  総勢2000の大集団。対する敵は、コルチの見立てでは1000足らず。力ずくでも 問題なく制圧できるだろう。  しかし、スナップドラゴン山賊団の戦い方は、他の山賊とは違っていた。それは もちろん、先を見通す力を持つ、コルチという名の高精度のレーダーを手の内に 入れているからだった。  コルチがいるからこそ、今の栄華があるのだということは、頭のカラマが一番よく 知っていた。  カラマがコルチを手に入れたのは、コルチがまだ十にも満たない頃であった。 『ジャイアント=ステップ』前のシャガ島は、世界一の大大陸・ロべりア大陸の 一部だった。その時の名はシャガ島はカンガといったが、今は忘れ去られた名だ。  カンガには、先祖代々脈々と受け継がれてきた占術的才能を有する、所謂“名家”という 存在があった。ほとんどは『ジャイアント=ステップ』によって大陸ごと沈んでしまったが、 コルチの先祖は今のシャガ島の中央付近におり、運よく生き残った。  シャガ島となってからも、残った占術の才能は滞りなく子孫へと受け継がれていった。  特に、コルチの父は、歴代でも屈指と噂される占術師だった。その占いは、生まれて来た ばかりの赤ん坊の人生を丸々見通すこともできる、とさえ言われていた。姉のルウと共に、 コルチはその凄まじい占力を受け継ぐ子として、生まれた頃から周囲の大人達から多大なる 期待を受けていた。  山賊という存在が、急速にその力を強めてきたのは、ちょうどその頃のことだった。 山の狭間に位置していた集落、村、町などを次々に襲撃し、シャガ島を 「山賊でなければ生きていけない」島にしようという見えない意志が全体に充満しようと していた時期であった。  そして、スナップドラゴン山賊団2代目の頭・カラマは、コルチの家を襲撃した――  コルチは、陰鬱な思いでいた。  殺気に満ちたこの空間にいると、どうしても心の奥のほうが刺激を受け、あのことを 思い出してしまう。  その度にコルチは、激しく嘔吐しそうになる。  記憶の奥の奥のほうに、錨をつけて下ろされた記憶。それには、意味がある。人間とは、 「死にたくなるほど辛い記憶」は思い出せないようになる。つまり生命維持の作用である。 その「死にたくなる記憶」が強引に引き揚げられる感覚を、コルチは何度も味わってきた。  コルチは、すでに限界だった。  なんとか、この場所から逃げたい。この島から出たいと、常に思っていた。  そこに、アイゼン=リリーが現れたのだ。  明らかに島の人間ではない。不思議な雰囲気。見ているだけで心惹かれる、触れたこと のない雰囲気。  コルチには、何となく分かっていた。リリーが今日、何らかの手段で島を出て行くだろう ということを。 『ジャイアント=ステップ』の影響で、海流は滅茶苦茶になっており、船は出せない。 つまり、ある島で生まれた人間は、そこで生涯を閉じるのが当たり前なのだ。  そこを軽やかに飛び越えたアイゼン=リリーに、コルチは内心憧れを抱いていた。  手紙にも、本当は書いておきたかった。 “私も、リリーと一緒に行きたい”と―― “今しか、ない” “この機会を逃せば、あたしはずっと、このままだ” “アイゼン=リリーと一緒に行ければ――”  ――あたらしい人生が、はじまる。  コルチは、カラマに、 「用足しに行く」  と言い残し、元来た道を走っていった。  カラマはそれを見て、 「我慢しすぎだ、小便を」  と、部下達と笑っていた。  コルチの読み通り、リリーはこの島を出ようと、ゴレムの隠れている場所へと向かって いた。コルチのことは気になるが、仕方のないこと、と割り切ろうとしていた。  ゴレムは、見知らぬたくさんの山賊達に、囲まれていた。