【アイゼン=リリーとスナップドラゴン山賊団】 T  この女性は、誰――? 「あなたにはできないわ。だから教えない」 “どうして!? やってみなければわからないじゃない!”  ――“私”が、そう反発する。 「許しませんよ、私は――あんな、育ちの悪い子と、なんて……」  目の前の女性は、とても優しそうだった。  優しそうな笑顔から、怒りの言葉を吐き続ける彼女。  それは、まるで、貼り付いた、そう、絵のような―― “…お母さんが教えてくれないのなら、自分で勉強して、作るわ”  ――“私”の思いも、相当に強い。  今、目の前の女性に否定されていることが、よほど大事なことなのだろう。 「…勝手になさいな。私は、知りませんからね――」  女性は優しそうな笑顔で、“私”を背けた――  ――アイゼン=リリーは、夢から覚めた。  これまでも、リリーは何度か似たような夢を見ていた。  毎回内容は違うものの、自分の目となっている人物は、常に同じだった。 “私”は、誰なのだろう。  リリーの中で、その思いは、夢を見るたびに膨らんでいった。 「…あ、ゴレムお早う――」  そう言ってすぐ、リリーは空を見上げた。  夜の帳はおりていた。 「――もう、夜だけどね。ゴレム、私、どれ位眠っていたかしら?…え、太陽が…… 私、随分長いこと寝ていたのね」  ゴレムはこう言っていた。 “太陽が3回昇って、3回沈むくらいだよ”  リリーは、そう聞いて、ゴレムに申し訳がないと思った。  ゴレムは休みなく歩き続けているのに、私はただ寝ていただけだ――  でも、自分に何が出来るわけでもない。リリーはそうも思った。とにかく、 自分が歯痒かった。  そんな時、ゴレムはリリーに言う。 「…有難う。御免、ゴレム」  ゴレムがリリーにかけた言葉は、きっと、優しい言葉だ。  ゴレムが伝えたのは、それだけではない。 「…見えてきたわね――」  あたらしい島だ。  山の多い島だった。  夜の闇が、巨大なゴレムの身を隠してくれる。高い山もあった。  今回は、上陸させてあげられる。リリーは、心から安堵した。  そろり、そろりと、ゴレムは大地に足を“沈めた”。 「慎重にね……この島の人達を、起こさないように」  運の良いことに、すぐ近くに標高の高そうな山があった。ゴレムより 遥かに背丈の高い彼にならば、安心して任せられる。  リリーは、その山すそに、ゴレムを横たわらせた。  じっとさせてしまうことには変わりないが、冷たく寂しい海の中よりは、 よほど良い。リリーは思った。 「ここなら、いつでも会いに来られるからね」  リリーは、ゴレムの頬に耳を当て、言った。 「…この島にいつまでいるかはわからないけれど、毎日夜になったら、忍んで来るわ。 …大丈夫? また、強がって――それとも、本音なのかしら? だったら、私、少し 寂しいな」  ゴレムは、姉に対して一切泣き言は言わなかったようだ。それがリリーには頼もしくも あり、若干寂しくもあった。  山とともに、森が占める面積も非常に大きい島だった。  夜目がきくリリーは、苦もなく入り組んだ森を進んでいった。  道は全く整備されていない。正確には、“かつては”整備されていたようだった。 昔は登りやすいように手が入れられていたのだろう。今は見る影もなかった。  それが、リリーにとっては妙に気に掛かった。  人はいる。いる、けれど――  しばらく山を歩いていると、ぼんやりとした明かりが遠くに見えた。  夜目がいくらきくとはいえ、やはり明かりを見ると心が安らぐ。  リリーは一息ついて一度立ち止まり、明かりへ向かってまた歩き出した。  この時、リリーは気づかなかった。あの場から発せられている邪な空気に。  それは、明かりがもたらす安心感のせいだろうか――  この島は、シャガ島という名だった。  リリーが見た通り、多くの山があり、そしてそれぞれの山に人間が巣食っていた。  山に棲む彼らは、総じて“山賊”と呼ばれていた。  リリーは、光の出処に辿り着いたとき、やっと己の失敗に気づいた。  注意深く気配を察知していれば、ここから逸れるルートを選んだ筈だ。  ここにいるのは、人間ではなかった。  光を恐れぬ野獣の集まりだったのだ。 U  アイゼン=リリーは、複数の狂気の前に曝されていた。  仄暗く輝きを放つ野獣達の目は、リリーの体を舐め回すように見る。  そして彼らは今、各々の妄想の中で、自分の性癖に合わせてリリーを 都合の良い姿に設定して、犯しているのだろう。  リリーはそれを敏感に感じていた。体に寒気が走った。  そして同時に、リリーは己に向けられている殺意をも感じていた。  この中の誰かが、リリーを屍姦する妄想を巡らせているのだ。  吐き気を覚えた。 「姉ちゃん、見慣れねぇ顔だがどこの山から来たんだい?」  その中の一人が、リリーに言った。野太い声だった。 「…ずっと、ずっと遠くの山からよ」 「そいつはお疲れだろうな。どうだい、こっち来て火に当たっちゃあ? ここなら 獣も寄ってこねぇし、来ても俺らが守ってやるぜ。暫く安心して眠れた夜はないだろう?」  あなた達が、獣だわ。リリーは心中で毒づいた。  リリーは微笑んで、 「いいえ。私、急いでいるの。それに、眠くはないわ」  リリーの言葉の後、場の緊張感は飛躍的に高まっていた。 “このアマ、逆らう気か” “女が、山賊の言うことを聞かないなんてこたぁ、許されねぇ” “仕方ない” “犯す”  山賊達は、まさしく獣のごとき気配を放ち、リリーに向かって突進して行った。  リリーはル・レーブをしならせた。  木に巻きついた、伸縮性と耐久性、弾力性をそれぞれ併せ持つ糸。  リリーは逃げを打った。同じ木の周りをぐるぐると回って。  山賊達は、歪んだ笑顔になった。勝ちを確信していた。  妄想は加速し、リリーは山賊達の妄想の中で無残な姿を曝け出していた。  暴力的な性的衝動は、山賊達の猪突猛進を助ける力を与えたが、同時に冷静さを 全く失わせた。木の両側から挟み撃ちにすればいいものを、それすら浮かんでこない 程だった。  糸が、完全に木に巻きつき終わった。ギチギチと、ル・レーブは軋みを上げる。  リリーは、前方に跳びあがり、ル・レーブに体を任せた。  山賊達は、予想だにしない光景を見た。  リリーが戻ってくるのだ。逃げていたはずのリリーが。  リリーは、木を中心にメリーゴーランドのように回転した。  木を軸として、ようやく解き放たれた糸が気持ちよさそうに唸りを上げた。  リリーは、細身の体に似合わず体重が重い。山賊達はリリーの勢いに巻き込まれ、 一気に弾き飛ばされた。  糸が伸びきった頃、リリーも地面に着地した。  その周りには、山賊達が倒れていた。  人数は、僅かに4人だった。リリーはこの時ようやく、正しい人数を把握する心の 余裕を得たのだった。  リリーは、倒れている1人の腹を踏んだ。  山賊は激しく喘ぎ、苦悶の表情に変わった。 「あなた達は、何者?」  山賊は、リリーの問いに答えず、ただ喘ぐばかりだった。  リリーは、足に力を込めながら、 「何者と訊いているのだけど」 「ぐぶっ!! ズ、スナッ……スナップ……ドラ……山賊団」  聞き取れなかったので、リリーはさらに強く踏んだ。 「スナップ! ドラゴン……さんぞぐだんだっ!!」 「スナップドラゴン、山賊団?」  男は必死に首を縦に振った。  リリーは、腹を踏む足の力を、若干弱めた。男は大きく息を吸って、吐いた。  そしてむせた。 「…私だって、こんなことしたくはないのよ。けれど――」  リリーは、奇妙な静謐さを漂わせ、言った。 「私は、この世界のことを知らなければならないの。まだ、死ぬわけにはいかない。 殺されるわけには、いかない」  リリー、無意識のうちにまた、足に力を込めていた。男が再び喘いだ。 「生きるために、あなた達を殺さなければならないというのなら――仕方ないことだわ」 「ごっ、ごろざねえっっ!! ぜっだい、ごろざねえがらあぁぁっ!!!」  リリーは、男の腹から足を上げた。 「…もっとも、あなた達如きに、殺される気はしないのだけれど」  最後、嘲笑を含んで、リリーは言い放った。 V  山賊達は、深く険しい山の中、アイゼン=リリーを案内している途中だった。  彼らはもちろん犬のように従順ではない。虎視眈々と、リリーに一泡吹かせる 機会を狙っていた。  しかし、リリーの発する気配は、獣達を圧倒していた。獣のような山賊達は、 相手の力を量ることには長けていたのだ。  敵う相手であれば、どんな手を使ってでも殺す。それをしないということは、 現状がそのまま答えと等しい、ということ。  リリーは、神経過敏になっていた。生に対する執着は強い。 “死ぬわけにはいかない”――  リリーは考えていた。 “今私が死んだら、ゴレムはどうなる” “あの子を1人にしてしまったら、どんな危険に曝されるかわからない” “そして――まだ私は、何も知らない子供と同じ” “殺されるわけにはいかない、私は”  松明が照らす僅かな明かりの中、リリーの三白眼が細くなる。  スナップドラゴン山賊団は、シャガ島でも1,2を争うほどの規模を誇る 大山賊団だった。  ブルヌス山を根城し、周辺勢力へ次々と攻め込み、降伏させ、乗っ取っていた。  強さだけがモノを言うこの島で、スナップドラゴン山賊団は、気分良く振舞っていた。  山の中腹に、根城は存在した。  本来、山賊の根城というのは、目立たないよう小さく、狭く、自然と溶け込むように 設計するのが基本のはずだった。敵がいつ攻めてくるかは分からない。簡単には気づかれ ないよう、細部まで気を配るのは常識だろう。  ところが、スナップドラゴン山賊団の根城は、さながら城のごとき巨大さで、その存在を 広く、強烈にアピールしていた。根城の上部には火が煌々と焚かれていて、存在を隠す気など 微塵もないのだということが誰の目にも理解できるだろう。  よくもまあ、山中にこんな建物を建てたものだわ。入り口から上を見上げていたリリーが そう呆れていると、 「リリーさん」  リリーは鋭い目で、根城の中から出てきた、自らが倒した山賊を睨みつけた。  山賊は、一瞬たじろいた。 「か、頭が、“会いたい”とのことです」  リリーは頷いてみせた。  案内されるまでもなく、力強い足取りで、根城の入り口をくぐる。  リリーはまだ、気を抜いてはいなかった。少しでも油断したら、命をとられる。  この島は、危険だ。  頭は、リリーの想像していた姿とそう大差はなかった。  筋肉質の大男。露出の多い服装は目に毒。体中が毛に覆われていて、男性らしさの 塊に思えた。  年は恐らく、30半ばから40のはじめ辺り、というところだろう。  この人のことも好きになれそうにはないわね、リリーは思った。 「…なるほど、上玉だな」  山賊という人種は、皆こうなのかしら――この頭も、部下達と変わりのない、女を 見るとすぐに下卑た想像を走らせる――リリーは、小さくため息をついた。 「…俺は、スナップドラゴン山賊団の頭・カラマだ。奴らがなにやらあんたにすまねぇ ことをしたようだ。悪かったな」 「気にしていないわ」  カラマは、リリーに詫びた。それは、リリーにとって小さな驚きだった。  さすがに、頭と呼ばれる人間は多少他とは違うのかもしれない。男という種としての 根本には、変わりがないようだが。 「その詫びがわりじゃねぇが、今日は泊まっていってくれ。なに、あんたに一切危害は 及ばねぇようにするさ。俺の目の届く範囲にいりゃ、安心だからよ」 「…そこの」  この部屋に通されてから、リリーにはずっと気にかかっている存在があった。  それは、カラマから少し離れたところにちょこんと座っている、可憐な少女の姿。  少女は、リリーが入ってきた瞬間からリリーの目を見ていた。リリーもそれに 気付いていた。 「ん? あぁ、あれはコルチだ。占いのできる女でなぁ、あんたも見てもらうがいい。 百発百中だぜ、奴のぁ」 「無理」  コルチは言った。抑揚のついていない声質は、外見とも相まって、幼さを感じさせた。  この頭の女だろうか、それにしては随分―― 「違う。あたしは処女だ」  リリーは、内心仰天した。思考が、見透かされている。 「処女を喪っては、力も喪われる。だからここの獣どもも、あたしだけは犯さない」  カラマは、豪快に笑ってから、 「こいつを欲しがってる山賊は一杯いた。その中で、手に入れたのはこの俺だ」  得意そうにそれを誇るカラマ。リリーにはそれが不快でならなかった。  人を物かなにかのように扱うその態度は、リリーを憤慨させた。 「いいよ、物でも」 「…いいの?」 「どうせあたしなんて、ただ生かされているだけの存在なのだから」  コルチはそう、微笑をたたえて言った。  リリーは、コルチの瞳の奥底にある悲しみに気付いた。  この子は、かつて大事な何かを喪っている――  コルチは、リリーの思いに対して、今度は何も言ってこなかった。  何も言わず、ただその顔に微笑みを宿していた。  しかしやがて口を開き、 「…名前は」 「アイゼン=リリー」 「アイゼン=リリー。リリーの心の奥の方は、真っ暗で何も見えない」  それを聞いたカラマは、驚いた顔をして、 「見えないだと?」 「うん。何もないわけじゃない。だけど見えない。何かの意志が働いている気がする。 とてつもない、何かが、複雑に渦巻いてる。リリーの未来は、見えない」  とてつもない、何か――  それは、なんだろうか。誰かに訊けるものなら訊いてみたいとリリーは思った。 「カラマ」  コルチはカラマを見て言った。 「あたし、リリーと寝たい」 W  女2人が寝るには少々広すぎる部屋だった。  2つ敷かれた布団の枕側の位置には、遠近の山々が飽きるほど見ていられる窓が 取り付けられていた。  この風景に宵闇とくれば、本来静寂が似合いなのだが、現実はそうなっていなかった。  男の声。女の声。絶叫に近い、当人達以外から聞くと、今にも昇天するのではないかと 思わせられる性質のもの。  アイゼン=リリーには、この声が具体的にどういった行為から生じているものなのか 皆目見当もつかなかった。ただ、体の底から虚しさと呆れ、憤りとが沸騰してくるのだけは 分かった。  リリーとコルチは並べられた布団に座っていた。  コルチは先ほどから何か飲んでいる。リリーは容器から微かに漂ってくる芳しい香りを 嗅ぎながら、徐々に眠気が増してくる感覚を覚えていた。 「…煩いでしょう」 「この声が?」  当たり前でしょう、と言わんばかりにコルチは容器の中の液体を飲み干した。そして また液体を注いだ。 「カラマも煩いけど、相手の女も相当。毎日こんな。本当嫌になる。明日戦があるのなら、 あんなことしていないで早く眠ればいいのに――」 「戦?」 「リリーは聞かされてなかったみたいだけど、明日、ヤマガ山の連中との戦いがある。 朝早いから、早く寝て欲しい……これ飲んでも眠れない」  コルチが飲んでいるのは、アルコール濃度の高い酒に北陽樹の樹液を混ぜたものだった。  北陽樹の樹液には、強力な睡眠作用があり、毎晩のように男女の騒音に悩まされている コルチにとっては欠かすことのできない習慣であった。  しかし、コルチはもう数年これを飲み続けており、最近は樹液の量を増やしてもなかなか 寝付けなくて悩んでいたりした。 「ねえ、コルチ。1つ訊いてもいいかしら」 「なに、リリー」 リリーは素直に疑問を口にする。コルチは酒を口一杯に含んだ。 「彼らは何をしているの?」  コルチはそれを聞いて、勢い良く口の中の酒を布団に向かって吹き出した。  リリーはそれに静かに驚き、不思議そうに、咳き込んでいるコルチを見ていた。 「…大丈夫?」 「けほっ……リリー、それ、本気で訊いている? 冗談ではなくて?」 「?」  リリーは、コルチがどうしてそんなことを言うのか、全く理解出来ずにいた。 「…リリー、知らないんだ」 「知らないわ。何が何だか分からないもの」 「あたしより、オトナなのに?」 「大人のすることなのね」  コルチはもう一度飲み直した。それから、 「獣の行為よ。人間が獣になるのは、殺戮のときと、それから――」  突然、コルチが黙りこくった。  コルチの頭に蘇ってきたのは、ある記憶。ある――凄惨な記憶だった。 「…コルチ」 「……………………」 「コルチ」 「…………快感だわ」 「…快感?」 「奴らは、身勝手な快感を欲しがる時、人間じゃなくなる。あたしは自分の身でそれを 体験したわけじゃない。だけどあたしは見た。人間が獣になる瞬間を。それをあたしは 自分の――」  ここまで言って、ハッとした表情でコルチはリリーを見る。そして頬を赤らめて、また 容器の酒を飲み干した。 「…とにかく、勝手な行為なのよ。あたしは自分の身をもって知りたくはないし、あまり 言いたくもない。リリーだってきっとそうだと思う」  確かに、こんな声は出したくないし、私には出せない――リリーはそう結論付けた。  リリーは気づいていないが、その“行為”自体は先ほど森の中で、野蛮な山賊達の 余りにも先鋭化された思考を受け取ることによって知っていた。ただ、それと今近くの 部屋で起こっている出来事とを結びつけることがどうしても出来なかったのだ。  コルチは、酒がなみなみと注がれた容器をリリーに差し出した。 「リリーも飲んで」  リリーは、首を横に振った 「どうして?」 「飲みたいと思えないの。御免なさい」 「…あたしの唾液がついている容器だから?」 「それとは、関係ないわ。ただ、飲みたいと思えないだけ」  コルチは、それならと容器をリリーの鼻に近づけた。 「匂いを嗅いでよ。初心者なら匂いだけでも眠れる」 「なぜ、眠らせたいの?」 「なぜ、って……リリーを“視る”ため。そのために、あたしはカラマに頼んだの。 眠っている時は、夢もそうだけど、奥のほうの記憶、感情、思考が少し表に表れてくる から掬い取ることができる」 「そんなことが、出来るの」 「冴えている今は、ね。あたし、生理の時は普通より研ぎ澄まされているから」 「…生理……?」  リリーは、不思議そうな顔をしたまま、眠りに落ちた。  数分後、コルチはリリーの口元に耳を寄せ、寝息を聞いていた。静かだが、確かに 寝ているということが確認できた。 「大丈夫そう……じゃあ、やるか」  コルチは、リリーの唇を奪った。 X  アイゼン=リリーが目覚めた時、部屋はがらんとなっていた。  コルチが、いない。  窓は開け放たれていて、昨日の酒臭さは大分薄れていた。  リリーは、寝起き特有の疎らな意識を少しずつ纏めていった。そして、自分が昨夜、 この酒の匂いで眠りへと誘われたのだ、ということを思い出した。  匂いに対する――特に刺激に――耐性のあるリリーを眠らせるほど、強い催眠作用を 持つ、北陽樹の樹液の混ざった酒。  それでも、コルチは、眠れないと言っていた――  彼女は、狂気剥き出しの騒々しい夜、その渦中、ずっと独りで過ごしてきたのだろう。  リリーは、立ち上がり伸びをした。そして、部屋の隅に掛けられた黒のドレスを 手に取ろうとした。その動きは、テーブルの置き手紙を見て、中断された。 “     アイゼン=リリーへ     私は羨ましいと思った。     素直に、そう思った。     リリーの中にある記憶を覗いて、私は少し泣いてしまった。     その中には、優しそうな父様と母様がいて。     元気で、姉思いの弟も。     幸せそうに笑うリリーも、もちろんいた。     ――リリーの姿は別人のものだったけれど、記憶の中では自らの姿が違っている     というのはよくあることだから――     記憶は、忠実には残らない。願望や、心の苦しみ、悲しみで、如何様にも形を     変えられてしまうもの。     それでも、私は、心の奥の、一番脆いところを突かれてしまった気がした……     あの優しさは、真実だ。私の母様も、優しい人だった。姉様も、そうだった。     父様だって――私は、大事なものを全て奪われたの。     リリーが羨ましい。     記憶の中の家族の姿が、こんなに綺麗に残っている、リリーが羨ましい。     私は、少し、泣いてしまった。リリーが羨ましい……     独りにしてゴメン。私も、戦いについていかなければいけないから。     人殺しの現場に立ち会う度、歪んだ記憶が逆流してくるよう。     私はもう、いなくなってしまいたい。                                    コルチ                                        ”  それは、コルチの言葉だった。  リリーには、家族のいた記憶などなかった。ゴレムが弟だということは、当たり前 のように認識していたものの、それ以上の記憶はなかったのだ。  リリーは、父母という概念が理解できなかった。  育てられた覚えなど、全くない。 「…忘れているだけで、あの夢の女性はやはり私……コルチの言うとおりであるのなら、 私にも、父様と母様が――」  記憶は、全くなかった。  だが、コルチが嘘を言うわけもないとも思った。  リリーは、コルチのことを信用するようになっていた。  この島では唯一、信用できる人間になっていた。  それゆえ、リリーはコルチのことが気にかかってならなかったのだ。 「北東、ここから10分くらいの距離。敵300人くらい。その周辺に30、50、60人 くらいの集団が点在してる」 「そうか。なら――小せぇ集団から潰していくべきだな。奴らの規模から考えて、その 300ってのが大勢力だろう。俺はそこへ動く。第2部隊は、西の500の集団と当たれ! なあに、数じゃこっちが優位よ。もしてこずるようなら、俺の兵力を割って向かわせるから 安心しやがれ」  スナップドラゴン山賊団は、既にヤマガ山への侵入を果たしていた。  総勢2000の大集団。対する敵は、コルチの見立てでは1000足らず。力ずくでも 問題なく制圧できるだろう。  しかし、スナップドラゴン山賊団の戦い方は、他の山賊とは違っていた。それは もちろん、先を見通す力を持つ、コルチという名の高精度のレーダーを手の内に 入れているからだった。  コルチがいるからこそ、今の栄華があるのだということは、頭のカラマが一番よく 知っていた。  カラマがコルチを手に入れたのは、コルチがまだ十にも満たない頃であった。 『ジャイアント=ステップ』前のシャガ島は、世界一の大大陸・ロべりア大陸の 一部だった。その時の名はシャガ島はカンガといったが、今は忘れ去られた名だ。  カンガには、先祖代々脈々と受け継がれてきた占術的才能を有する、所謂“名家”という 存在があった。ほとんどは『ジャイアント=ステップ』によって大陸ごと沈んでしまったが、 コルチの先祖は今のシャガ島の中央付近におり、運よく生き残った。  シャガ島となってからも、残った占術の才能は滞りなく子孫へと受け継がれていった。  特に、コルチの父は、歴代でも屈指と噂される占術師だった。その占いは、生まれて来た ばかりの赤ん坊の人生を丸々見通すこともできる、とさえ言われていた。姉のルウと共に、 コルチはその凄まじい占力を受け継ぐ子として、生まれた頃から周囲の大人達から多大なる 期待を受けていた。  山賊という存在が、急速にその力を強めてきたのは、ちょうどその頃のことだった。 山の狭間に位置していた集落、村、町などを次々に襲撃し、シャガ島を 「山賊でなければ生きていけない」島にしようという見えない意志が全体に充満しようと していた時期であった。  そして、スナップドラゴン山賊団2代目の頭・カラマは、コルチの家を襲撃した――  コルチは、陰鬱な思いでいた。  殺気に満ちたこの空間にいると、どうしても心の奥のほうが刺激を受け、あのことを 思い出してしまう。  その度にコルチは、激しく嘔吐しそうになる。  記憶の奥の奥のほうに、錨をつけて下ろされた記憶。それには、意味がある。人間とは、 「死にたくなるほど辛い記憶」は思い出せないようになる。つまり生命維持の作用である。 その「死にたくなる記憶」が強引に引き揚げられる感覚を、コルチは何度も味わってきた。  コルチは、すでに限界だった。  なんとか、この場所から逃げたい。この島から出たいと、常に思っていた。  そこに、アイゼン=リリーが現れたのだ。  明らかに島の人間ではない。不思議な雰囲気。見ているだけで心惹かれる、触れたこと のない雰囲気。  コルチには、何となく分かっていた。リリーが今日、何らかの手段で島を出て行くだろう ということを。 『ジャイアント=ステップ』の影響で、海流は滅茶苦茶になっており、船は出せない。 つまり、ある島で生まれた人間は、そこで生涯を閉じるのが当たり前なのだ。  そこを軽やかに飛び越えたアイゼン=リリーに、コルチは内心憧れを抱いていた。  手紙にも、本当は書いておきたかった。 “私も、リリーと一緒に行きたい”と―― “今しか、ない” “この機会を逃せば、あたしはずっと、このままだ” “アイゼン=リリーと一緒に行ければ――”  ――あたらしい人生が、はじまる。  コルチは、カラマに、 「用足しに行く」  と言い残し、元来た道を走っていった。  カラマはそれを見て、 「我慢しすぎだ、小便を」  と、部下達と笑っていた。  コルチの読み通り、リリーはこの島を出ようと、ゴレムの隠れている場所へと向かって いた。コルチのことは気になるが、仕方のないこと、と割り切ろうとしていた。  ゴレムは、見知らぬたくさんの山賊達に、囲まれていた。 Y  ゴレムを取り囲む山賊の数は、少なく見積もっても30人というところだった。  その光景を見た瞬間、アイゼン=リリーは激しく狼狽した。まず、数が多い。 1人ではとても太刀打ちできない。そう思った。  リリーは木陰に身を隠していたが、いつまでもこうしていては、そのうち連中によって ゴレムが何か辛い目に遭わされるのは間違いない。否、ああして見知らぬ、その上にとても 善人そうに見えない男達に囲まれているだけで、相当に心細く、怖いことだろう。  リリーは、胸に手を当て、大きく息を吸った。そして吐いた。 「なんなんスかねえ、このデカ物」  山賊の1人が言った。別の山賊がそれに答えて、 「石像だろ?」  また別の山賊が言う。 「まあなんでもいい。しかし、こりゃホントなんなんですかねえ、頭ァ」  なんでもいいと言った癖に、この山賊団の頭に話を振る。全体にゆるい空気が流れている 小さな山賊団だった。 「コイツ、動くんじゃねぇか?」 「ええー」 「昨日はこんなモンなかっただろがよ」 「まあ、そうっスね」  この間の抜けた声の山賊は、今自分の背後から迫り来る、鋭く風を切り裂く音に 気づかなかった。 「ゲボリャッッ!?」  勢いのついた空中膝蹴りを後頭部に喰らい、妙な叫び声を残して倒れた山賊。リリーは 着地すると、ゴレムのちょうど真上にあった木の枝から、ル・レーブの糸を解いた。 「――私の弟に指一本触れないで」  それを聞いた山賊達は、皆一様に首を左右に動かした。そして、 「弟?」  と言った。リリーがゴレムの頭部の先端を撫でると、今度はそこに視線が集中した。  そして、森に響く笑い声。 「そッ、そんな石の塊が弟! くははっ!!」  今一真剣味の薄いこの山賊団の象徴のような頭は、どうやら笑い上戸のようだった。 他の部下達が笑うのを止めても、頭は地面に蹲ってひーひーと面白苦しそうにしていた のである。 「…見ただけでは、石の塊だと思うかもしれないけれど――」  静かに、リリーが口を開いた。 「ゴレムは、土で出来ているのよ。堅いけれど、でも、とても暖かいの。あなた達は、 この子が生きているように見えない? この子には意志があって、きちんと言葉も発して いるのに、それにも気づかないの?」  蹲っていた頭が、頭だけ起こして、リリーに、 「…今の……」 「…何?」 「“石”と“意志”を、掛けたの?」 「…………」  リリーの不思議そうにしている表情を見て、再度頭の笑いのツボが突かれた。 「げひひひひひひひ……!!」  リリーは、どうしていいのやら分からなかった。ただ、苛々していた。 “何が、そんなに面白いの” “ふざけた人達” “ロクな島じゃない”  リリーは“ゴレムに触れたまま”怒りを面に出してしまっていた。  敵に囲まれ、リリーにも余裕はなく、触れた瞬間にゴレムの精神状態を慮ることを しなかった。もしそうしていれば、最悪の事態は引き起こされずに済んだはずだった。  ゴレムは、とても怯えていた。たくさんの知らない、怖そうな人達に囲まれ、しかし 愛する姉から動くなと言われていて、どうすることも出来ずにいたのだ。大きな体に 小さな心を収めているのが、ゴレムなのである。  そんな追い詰められた心的状況にあるゴレムへ、とどめとばかりに苛々を流し込んで しまったのが、“最愛の姉”リリーだった。  ゴレムは、のそりと動き出し、立ち膝になった。そして、地が割れんばかりの叫びを 体全体から発した。     キィィィィィィィィィィィィ――――――――――――  音は、一瞬にして島全土に響き渡った。  それは、人間の神経に障る音で、皆耳を塞いでいた。  スナップドラゴン山賊団の面々もそうしていたし、もちろん、コルチも――  コルチは、音のほうに目をやった。  先に、視ていた。こうなることを、コルチだけが予見していた。音を発するのが何なのか までは、占いでははっきりとは見て取れなかったが、それは今、理解した。 「…巨人……?」  状況は理解出来ないが、コルチの中で、ある1つの答えが導き出された。 “アイゼン=リリーは、あれに乗ってこの島にやって来たんだ”――  コルチは、再び走り出した。余りにも目立つ目印へと向かって。  リリーは瞬間、ル・レーブで自分の指定席に達していた。  肩を走り、ゴレムの巨大な顔の頬の部分に耳を当て、そして、 「どうしたの? どうしたのゴレム!?」  そう叫んだ。しかし、ゴレムの声は、聞こえなかった。  聞こえるのは、様々な音が雑然と入り混じった、捉えどころのない思念の浮雲だった。  今度は、正体の見えないそれらが、リリーの中に流れ込んでくる。  それは、怒りであり、憎しみであり、破壊衝動であり、殺意であった。  そうして激しい頭痛に襲われたリリーは、痛みを撥ね返そうと、 「…ゴレム!! 大丈夫ゴレム!? このままここを出ましょう! 海へ出るのよ、 ゴレム!!」  リリーの言うことを聞いてか聞かずか、ともかくゴレムは完全に立ち上がった。  そして、その足は、真下の山賊達へと向かって下りていった。  山賊達は悲鳴を残して次々と逃げていく。しかしそれでも、先程の騒音の中でも―― 頭は、構わずに笑い続けていた。 「――! 駄目、ゴレム! 踏んではいけない!!」  足は、完全に下りる間際、止まった。そのままさらに前に出して下ろし、頭は知らぬうちに 生かされた。  しかし、ゴレムは止まらない。 「!」  ゴレムは、走り出した。  威容を揺らして、ゴレムは駆ける。北へ、北へと――  途中、スナップドラゴン山賊団の根城が“足に引っ掛かって”無残にも破壊されて しまったが、それももはや些細なことだった。  リリーはひたすら、叫ぶ以外になかった。 “悪いのは、私だ――” 「ゴレム!! 御願い、止まって!! ゴレム!! 私の声が届かないの!?」  今までに出したこともないような大声を出し、リリーは必死に止めようとした。しかし それでもゴレムは止まらない。 「御免ゴレム!! 私が――お姉ちゃんが悪かったわ! 怒るのも分かる!! 分かるけれど……! これは、いけないことなの! ねえ、止まってゴレム!!」  涙が出るほど、リリーは叫んだ。相変わらずゴレムの中は混沌としていて、リリーは 声が届いているのか届いていないのか、まるで分からなかった。  リリーは叫ぶのを止め、語りかけるように、 「…そう、私が悪いの。あなたは何も悪くない。私が、自分勝手にゴレムを1人にしておく から、寂しいし、怖いし、暴れたくもなるわよね……でも――普通の人は、あなたを見たら」  リリーは、下を見た。山賊が腰を抜かしている姿があった。 「…ほら、ああして驚いてしまう。私は……私達は、今後、どうしていくべきなのだろう。 あなたに我慢はさせたくない。けれど――」  ゴレムが人のいる島で自由に動き回れる方法など、リリーには思いつきそうもなかった。  今はそんなことを考えている場合ではない、そうリリーは首を左右に振り、もう一度、 ゴレムに思いを伝えようと考えた。叫ぶ瞬間、リリーの涙がゴレムの頬に落ちた。 「――ゴレム!!」  リリーは、自分以外の誰かも一緒に名を叫んだことに気づいた。  身を乗り出して真下を見ると、そこには少女がいた。  それは、コルチだった。  リリーはそれを見て、衝動的に飛び下りた。  ゴレムは、不思議と止まったのだ。  コルチは、少し後ずさりして、落下してくるリリーに備えた。  上空のリリーが、どんどん近くなり――そして、着陸した。  足が深く地面にめり込んだが、リリーは何ともない様子で、 「コルチ!」 「リリー! あたしも……あたしも連れて行って!!」  予想もしない言葉に、リリーはキョトンとする。  しかし、コルチはずっと前から、このいきなりのタイミングで言おうと決めていた。  そうすれば、きっと上手くいく――それは自らの占術に拠らない結論だった。 「…あたし、生まれ変わりたい」  リリーは、今にも泣き出しそうなコルチの手を、何も言わずに引き寄せ、片方の腕で 小脇に抱きかかえた。そしてもう一方の腕でル・レーブを繰り、ゴレムの肩へ戻った。  その時、やっとコルチの追っ手が追い付いて来た。 「トイレが長すぎる」  とカラマの命を受けた彼らだが、ゴレムの奇声に長い間苦しめられ、暫く任務を忘れて いたため、結果的に遅れたのである。今更来ても、もう遅かった。 「ゴレム、海へ出ましょう」  今度は、ゴレムはリリーの言うとおり動いた。その次にリリーに何か言った。それを 聞いて、リリーは疲れた笑顔を作った。そして、 「いいのよ」  とだけ言った。  アイゼン=リリーは眠っていた。叫び通しで疲れ果てたのだろう。  コルチはといえば、はじめて島の外へ出た高揚感もあり、今自分が乗っている謎の物体の 正体のことなど、考えもしていなかった。  無防備に眠るリリーの唇を凝視しながら、コルチは何故自分がこんなにもリリーに惹かれる のか、と考えていた。その答えは、リリーの顔をはじめて見た瞬間から分かっていたのだ。 しかし、それを認めたくはなかった。正確には、“それ”に関連する出来事について、 少し触れるのも嫌だったのだ。  しかし、今は島からも離れた。“それ”を過去あったこととして、他の過去の出来事と 平等に扱うことも、努力すれば出来るのかもしれない――コルチは、その可能性に気付いて、 無性に興奮していたし、感動さえも覚えていた。 「…あたし、変われるかもしれない。アイゼン=リリー……いえ、ネリア姉様」  コルチは、もう認めることにした。  実の姉と、リリーの顔立ちが瓜二つだということを。  もう、島は離れた。あたしは、強くなる――  コルチは、“それ”が起こって以来はじめて、姉の名前を口に出したのだった。 「…ありがとう」  コルチは、リリーに口づけした。自分が幼い頃、姉にされたのと同じように。 【アイゼン=リリーとスナップドラゴン山賊団/了】