V  風景だけ見れば寂寥としているといえるだろう。しかし音というものがある。吹雪は 身を切り裂くような鋭い風音と共に舞っていた。そうなれば、それはもはや寂寥などと いう言葉とは不似合いな風景となった。  そんな中を、ゴレムは嬉々として進んでいた。これ程長い時間大地を踏み締めたことは、 少なくとも眠りから目覚めた後なかったからだろう。彼は歩きながら、後ろを振り向いた。 自分の通った後に、巨大な雪の窪みが出来る。そんな光景が、何故だか楽しくてたまらない のだという。  アイゼン=リリーは、弟の声を満足そうに聴いていた。ゴレムが嬉しいと私も嬉しいわ。 これまでゴレムに我慢を強いていたことを気に病んでいたのだ。こうして水の張っていない 大地を歩けるというのも、タイミングのいいことだわとリリーは笑って、ゴレムの頬を撫ぜた。 「…おかしいわね」  二人の向かっている先は、老人の家より北西、山あいにぽっかりと鍵穴のように空いた 空地だった。そういう場所があると、リリーは老人から聞かされ、そして乞われていた。 確かにそれは存在したが、そこには何もなかったのだ。リリーは空を見上げた。確かに、 背の高い山の岩肌に囲まれたそこから顔を上げると、空がまるで鍵穴のように見えた。 ここだろうとリリーは確信していたが、老人のいう『怪物のような生物』の姿はどこにも 見当らなかった。  狩りにでも行っているのかしらと呟いて、リリーはゴレムの頬に耳を当てた。ゴレムは 姉に危機を告げた。それを聴いて、リリーはまた空を見上げた。その目を岩肌の先を 見通すように――すなわち山の向こうまでを見透かすように強めて、そして耳を働かせた。 肌の感覚を鋭敏にした。雪の当たる感覚を追い出し、ただ1つ、山の方から迫り来る、 微々たる振動のみを感じ取っていた。それの正体までは、リリーには分からなかった。 ゴレムの頬に耳を当てると、ゴレムは雪崩だと言った。ただそれだけじゃないとも言った。 それは――何か、とても大きな生物だ! ゴレムはリリーに叫んだ。そして次の瞬間、 リリーを鍵穴の外に放り投げた。 「ゴレム!!」  リリーは、遠くなった空地に向かって叫んだ。雪に埋もれてしまったことが遠目からでも 明らかに分かった。ゴレム! 届かないと分かっても、叫ばずにはいられなかった。リリー は己の貧弱を恨んだ。しかしその時、雪の中から巨大な“2つ”が立った。1つは勿論ゴレム であり、そしてもう1つは、ゴレムより縦も横も大きい、巨大な象の如き生物だった。 ゴレムは巨大象から突進を受け、空地の奥の岩肌に叩きつけられた。大量の雪が、ゴレムの 頭上に落ちてきた。ゴレムは驚愕していた。自分と同じ位の大きさのものを見た記憶は おぼろげにあったが、自分より大きなものがこの世界に存在するとは、終ぞ想像したことも なかったのだ。  巨大象は何度か突進を続けた。しかしゴレムは抵抗しようともしなかった。ゴレムには 本来闘争心がなかったのだ。シャガ島で大暴れした姿は、そこには欠片も見られなかった。 結局のところ、ゴレムを立ち上がらせたのは―― 「立ち上がって! ゴレム!」  お姉ちゃんが言うなら、とゴレムはすっくと立ち上がった。巨大象は、ゴレムに再び 尻餅を突かせようと突進を仕掛けてきた。ゴレムはしかし、巨大象の2本の牙を掴み取り、 逆に岩肌に叩きつけてやった。リリーはすかさずル・レーブを繰り、ゴレムの肩に戻って きた。 「なんとか気絶させて。あの牙だけが欲しいの……」  自分の吐いた言葉が、ちくと胸に刺さった。何という身勝手な行為だろうか。あの 生物は、私達さえ訪れなければ、平穏無事に暮らしていたものを。だけれど、それでも、 私は、あの牙を手に入れなければならない。ゴレムのために。ゴレムは姉の思いを 感じ取っていた。お姉ちゃんは、ぼくを想ってくれている。その気持に応えたい。 そう思って、既に体勢を立て直していた巨大象を見据えて、腕を振り上げた。だが。 「!」  巨大象は、その太い鼻を精一杯働かせて、吸引した。凪いでいた空地の空気が突然、 轟音と共に猛り出した。その吸引力は凄まじく、ゴレムの重い体はともかくとして、 リリーの120sを超える重さなど米粒のそれと変わらなかった。リリーは瞬間 ル・レーブを繰り出しゴレムの額に巻き付け、何とか堪えていたが、それも時間の問題 であった。  リリーの握力を超える程の吸引力は、いつまでもル・レーブの柄を掴ませていては くれなかった。リリーは巨大象の鼻の中に吸い込まれていった。  鼻の中から、ゴレム……と、聴き取れない声がした。しかしそれは、ゴレムには 聴き取れた。愛する姉の助けの声が、聴こえないはずがなかったのだ。  ゴレムは巨大象の、鼻の下の口元に拳を見舞った。そして体勢が揺らいだところを さらに蹴り上げ、仰向けにさせた。口元を踏み上げたまま、ゴレムは長い鼻の先端を 両手で掴んだ。そして一気に引っ張り上げた。鼻は、根元から千切れ、多量の鮮血と 共に、黒いドレスの女が空を舞った。  ゴレムはそれを見届けた後、ひたすらに巨大象の口元を、腹を、足を、牙を傷付けぬ ように気遣っているかの如き慎重さで、踏み続けた。やがて巨大象は絶命するが、それでも 踏み続けていた。リリーは背を向けて、岩肌を伝って歩いた。それは、ある種の防衛機能が 働いてのことだった。リリーは、ゴレムの狂った姿を見たくはなかった。そしてそれが、 自分に起因して起こった事柄だということも認識したくなかった。それは身の防衛だった。  少し歩くと、同じ位の大きさの空地があった。鍵穴とは程遠い、ボコボコした体であった ので、すぐに記憶から抹消していた。  そこには、大きな窪みがあった。雪は積もっていた。しかしそれでも尚埋まらないほどに、 深い窪みだった。それは足跡だった。とても、見覚えのある形の。リリーは、後ろを 振り返った。そして、吹雪舞う雪原に刻まれた、生まれたての窪みと見比べた。その2つは、 違和感なく重なった。  じっと、空地の足跡を見ているリリー。やがて、足音がして、リリーの背後にゴレムが 立った。ゴレムもまた、空地の足跡を見ていた。リリーは見上げて、ふっと笑いながら、 ル・レーブを繰った。 「不思議な偶然もあるものね。ゴレム」  両手に血染めの2本の牙を手にしたゴレムが、老人の家へ戻るため、一歩踏み出した。 吹雪で先は見えないが、足跡は残っている。その巨大な足跡は、そう短い時間で隠れて しまうものではない。