W  この一帯の中で、老人の家だけが、生物にとってこの世の天国といえる場所なのかも 知れない。暖炉のお陰で暖かい室内。安息が約束されるベッド。コルチが、ある意味 安心して体内の菌との闘いに精を出せている理由である。  熱は、アイゼン=リリーが出て行った時と比べて、また少し上がっていた。息も荒く、 汗も噴き出しているが、この苦しい峠の登りを乗り越えられれば、容態も安定すること だろう。コルチは先程から呻きながら何度も、リリー、リリー……危ない、大きな化物が 山から……吸い込む力が強いわ……気をつけて、リリー……。あの山の巨大象のことを 知っている筈はないのにと、老人は内心驚きながらそれらを聞いていた。やがてコルチが 安らかな顔で、涼やかな寝息を立て始めた。少し良くなったのかと思ってからすぐ、 振動を感じた。振動はどんどん近付いてきた。老人は、口髭を撫ぜた。  アイゼン=リリーとゴレムの姉弟の帰還であった。 「よくやったのぉ、アンタも」  老人は、リリーが重そうに抱えている2本の巨大な牙を見て、喜んで言った。 「まさか“山の神の使い”をこれ程早くに倒してくるとは」 「私の力ではないわ。ゴレムの手柄よ」  リリーの表情は、決して明るいとは言えなかった。しかし穏やかそうに眠っている コルチを見ると、少し救われる気持がした。 「…山の神の使いとは?」 「ああ。あれは、ただの生物じゃないのだよ。あれは、“我々の神”によって造られた命 ではないんじゃ」 「別の神が造った命……?」 「お前さんらも見ただろう。あの、雲を突き破りどこまでも伸びている山を。あれは、 ここより北の人間達から霊山と呼ばれる山でな。我々とは別の神があそこにいると、 旧くからの伝承でな――」 「…神?」  リリーにはそもそも、“神”という存在がどういったものなのかが理解出来なかった。 我々……私達……私と、ゴレムも、その神に造られた存在であるということ? 「…つまり、お前さんらが倒した化物は、我々とは違う神から生まれ出でてきた生命の一種 ということじゃ。科学的な根拠は全くないがな。それでも、北の人間は頑なに信じておるよ。 ま、ワシもそこで生まれた人間なんだが」 「御爺さんは、信じていないの?」 「まあ、他に呼びようも無いんで神の使いだなんだと言うとるが、殺すことに抵抗はない。 なあアンタ。アンタは、信心とはどれ程根深く、強いものだと思う?」 「信心?」  また、よく分からないことを言われた。リリーは無言になった。老人は言う。 「独りになると、よく分かる。あれの根底にあるのはな、怖れだよ」 「怖れ……人に対する、怖れ?」 「そう。その気になれば、神など怖るるに足りぬのだよ。神は明日の食い物を恵んでは くれんからな。独りであれば、他人が存在せん。人と違うことを怖れる必要はないのじゃ。 勿論、本当に神への信仰に熱心な輩もおろうが、そんな奇特なモン極々少数で、ほとんどは 他人と違うことを、迫害を怖れる一般市民達なのだよ。教会は、“神の子を殺すな”という。 そうじゃ、北の街にはな、2つの教会がある。1つは、我々の神の教会。そしてもう1つが 山の神を敬う教会じゃ。どちらも殺生はイカンと言うとるが、山の神の教会は、人間の生命 より山の神の生み出した生命を大事にすべしという教えで一貫しとる。気をつけることだ」 「つまり……御爺さんは、神をそれ程大事にしていないということ?」 「神さんは、我々を救ってはくれんさ。人は、自分の力で立ち、歩かねばならんものだ。 …こんなことを、街で言ってはいかんぞ。信心深い連中は、酷いことをするからなぁ」 「…神って、何なのかしら」  分からないことを分からないままにするのは、一番いけないことだ。リリーは老人から その答えを引き出すために呟いた。しかし老人は、笑ってこう言うのだ。 「ワシにもよぉ分からんわ」  次の日、老人は2本の牙を、定期的に現れるという行商人の一行に渡し、大量の食料と 燃料を得た。牙は北の街で加工されて、金持ちに高値で売りつけられるのだという。山の 神を信じる人達が怒り狂うのではないかとリリーは思ったが、人間などいい加減なもので、 加工すれば分からないのだという。  老人は、1週間くれとリリーに言った。コルチの体調のこともあり、それを快諾した。 2、3日が経つと、コルチはすっかり元気になり、子供らしくリリーとカード等で戯れたり、 厚着をしてリリーと共にゴレムの肩に乗り、一面の銀世界に心ときめかせながら散歩したり した。シャガ島にいた時とはまるで人が違う様子で、リリーはいかにあの場所でコルチが 圧迫されていたかと切なくなって、また嬉しくもなった。老人は、釜の前に食料を供え、 暖炉の前、ロッキンチェアーで揺れているのみだった。  そして、約束の前の夜。リリーは、薄暗い闇の中、仄かな光を感知し、目を覚ました。