Y 「…どうしたの、コルチ」  アイゼン=リリーが察して、そう言った。コルチは、厚手のコートを纏うその身を小さく くねらせていた。それを見かねて、老人はそっとコルチの肩に手を置いて、言いたいことは、 言えるときに言っておいたほうがいいと囁くように伝えた。そして、コルチはようやく 口を開いた。白い息が漏れ、空へ立ち上りて消えて行く。 「…あたし、あたし、まだ、リリーに話していないことがある……今日まで、何度か話そうと してきたのだけど、なかなか言えなくて……でも、“おじいちゃん”がこうしてくれている から、今なら話せるような気がして――ううん、今言わなければ、ダメなの」  コルチの表情から浮き上がっている、憂い、怯えを見て取ったリリーは、これから始まる 独白をしっかりと聞いてあげなければならない、と心に定めた。コルチは、意を決したように 顔を上げて、リリーと目を合わせたり、また逸らしたりした。 「コルチ、安心して」 「えっ」 「これからあなたが、どういったことを話すのかは分からない。だけれど、私は何を聞いても あなたに嫌悪を抱くことはないわ」  リリーはそう言って、コルチの冷たくなった手を包んだ。コルチは、リリーの手の冷たさに 一瞬顔をしかめた。しかしすぐに、奥から暖かさが顔を出してきた。そういえばと、コルチは 思った。ここに足を踏み入れた最初の日、リリーの弟という土巨人から感じたのと同じ暖かさ だ―― 「…不思議な暖かさ……」 「話が終わるまで、私はずっと手を握っているわ。どんな話でも、私はこの手を離さない」  それは、リリーの思いやりだった。コルチには、リリーの優しさが視えた。心を見れば 分かる。リリーは一片の曇りも無く、本当にあたしを思ってくれている。  それが、辛い。 「…あたしね、家族を皆殺しにされたんだ」  老人の表情が険しくなった。リリーは、やはり、と思った。それをコルチは視て、ああ、 リリーはお見通しだったんだなあと心の中で苦笑した。 「それを実行したのは……」  リリーは、スナップドラゴン山賊団の頭――カラマの姿を心に浮かべた。 「…そう、カラマよ。あいつが……父様の首を刎ね、部下によって母様を犯し、自分は、 若くて美しかった姉様を……」  コルチは、震えていた。リリーには分かった。コルチは怖れているのだ。過去と向き合い、 記憶を反芻することを。今のコルチを形成した出来事。コルチには悪いが、知りたい。 知らねばならないとリリーは思った。そして手に力を込めた。何を聞いても、私はこの手を 離さない……リリーのこの強い思いがなければ、果たしてコルチは、凄惨な過去を反芻出来た だろうか。老人が肩に手を置き、リリーが手を包んでくれる。2つの優しさがあるからこそ、 コルチは、どこか安心して過去に飛び込むことが出来ているのだ。 「…カラマは、野心で出来ている人間だった。初め、あいつは、父様に協力するよう言って いた。勿論父様は拒否したわ。“占術師は、私利私欲の争いのために存在するのではない” そう言って、ね。」 「…立派なもんじゃ。嬢ちゃんの親父さんは、自分の仕事に対して真摯で、実直な人間だった んだろう」  老人の言葉に頷くコルチとリリー。 「父様は立派だったわ。だけど、それがカラマの怒りを招いてしまった……あいつは、山賊団の 全戦力を投入して、家に襲い掛かってきたのよ。使用人たちは皆殺されたり、さらわれたりした ……父様は、噴火したみたいに、感情を爆発させたわ。あんなに我を失った父様を見たのは、 あれが、最初で最後だった。カラマに食って掛かった瞬間、父様の首が体から離れた―― そして、奴は言ったの。“末の娘で代用出来るだろ”って! カラマはそう言って、笑って…… そして、獣の目で、ルウ姉様を……!」  リリーは、自らの心の軋む音を聞いていた。コルチの怒りが、悲しさが、苦しさが、悔しさが、 心を締め付けている。そしてリリーの心に満ちたのは、怒りだった。 「…ありがとう、2人とも、私のために……」  コルチ自身、不思議な気持だった。2人はとても怒っている。しかし、それが嬉しくて仕方が 無いのである。コルチは今、幸せを感じていた。全てが変わったあの日以来、一度たりとも感じた ことのない幸せに包まれて、コルチは泣くのを堪えて、笑った。 「うん、言えて、少しすっきりした……リリーとゴレムが行ってしまう前に、言っておきたかった から――」 「…え?」 「リリー……あたし、おじいちゃんと一緒にいる。リリーとは、もう一緒に行けない」 「…そんな、どうして」  リリーは狼狽していた。これまでに感じたことの無い、切ない感情が満ちてきていた。 「前、シャガ島で“リリーの未来は見えない”って言ったけれど……リリーと長く一緒に 居たからか、少しだけ見えるようになったの。リリーの未来に、あたしは居なかった。それは、 “居てはならない”、ということなのよ。リリー。ここから北へ行くと、小さな街があるわ。 そしてその背後には、巨大な山脈が走っている。山脈を越えていくとまた違う、今度はとても 大きく、強い街があって、その先は深い深い海――そして、あなたは、あなたと深い関わりの ある人と出会うことになる」 「ちょっと待って、コルチ、居てはならないとはどういうことなの? あなたが大事なのに!」 「占術師は、先を視てしまえるから……その、視えたものに逆らうことは出来ないの。それが、 唯一絶対の掟。未来を見通せるものが、自らの勝手でそれを作り変えてしまったら、それはもう 人間ではなく、神のようなものでしょう? だから、ダメなの……あたしだって!」  コルチは、その先を言わなかった。リリーは、うなだれて、手を離した。 「…リリー。あたし、あなたのお陰で、“幸せに生きていいんだ”って思えたのよ。 ありがとう、本当に、ありがとう。さあ、行って」 「…………」  リリーはうなだれたまま、何も反応しなかった。 「行って! 早く行ってよ、リリー!!」  コルチは、いつの間にか涙声で叫んでいた。コルチだって、辛いのだ。私を嫌いになった わけではないのだとリリーは思った。リリーは顔を上げ、コルチを一度抱きしめた。そして 身を翻し、その後は一度も振り返らずに、ゴレムの肩に乗った。 「リリー! 大丈夫、また会えるわ! さようならは少しの間だけよ、リリー!!」  この言葉は、占いでも何でもない、コルチの願望だった。コルチと老人は、去り往くリリーと ゴレムの背中を、吹雪で隠れて消え去るまで、ずっと見ていた。 「…さあ、嬢ちゃん、家に戻りな。また熱出しちまうぞ」 「うん。これからよろしくね、おじいちゃん」  老人は笑顔で頷いた。コルチは、目の下の少し凍った涙を人差し指で軽く払い落として、 暖かい暖炉の待つ家へと戻って行った。そして家に入る前に振り返って、大きな声で、 「おじいちゃんのこと、本当の家族と思っていい!?」  と、子供らしく言った。その表情は、憑き物が取れたかのように明るかった。 「当たり前じゃ!」  老人もまた、大きな声で返した。コルチは笑顔で家に入って行った。老人はそれを見て 微笑んでから、今度は物憂げな顔になって、 「…不思議な暖かさ、か」  老人は、思い返していた。数日前、老人は2人の寝静まったタイミングを見計らって、 外で眠っていたゴレムに触れていたのだ。その時感じた奇妙な暖かさは、コルチの言う “不思議な暖かさ”と同じ感想を老人に抱かせたものだった。 「…ただの土で出来ているように見えて、その実凄まじい強度。だがあれに鉄の冷たさはなく、 触っているとやがて、じんわりと、人肌に近い熱を感じるようになる……あれは確か――」  老人の脳裏に浮かんだのは、数十年前に出土した、旧時代の遺物だった。 「…まさか、な」  そう呟いて、老人は体を一度大きく震わせた後、暖かい家へと戻って行った。  ゴレムは、リリーに話しかけた。大事な存在から離れることとなった姉を案じる言葉である。 「…ゴレム、私、強くならなければね」  リリーは、ゴレムにそう返した。 「これからはきっと、もっと険しい道が待っているのよ。私も、ゴレムくらいに強く ならないと、足手まといになってしまいそう」  リリーは、ぽつりと言う。 「海を往けば、山をやり過ごせるでしょうけれど、それは違うのだわ……だって、コルチは、 “海を回って”とは、一言も言っていなかったもの」  コルチの言葉を胸に刻み、リリーとゴレムは進む。 【アイゼン=リリーと足跡/了】