【アイゼン=リリーと足跡】 T “お姉ちゃーん! 見て、ぼく登れたよ!”  高い木の上から、屈託無い少年が“私”を見て嬉しそうにしている。  “私”は慌てて少年に降りるように声を掛けている。  しかし、少年はなかなか“私”の言うことを聞こうとはしない。 “ずっとずっと挑戦しててやっと登れたんだもの、まだ降りたくないよ!”  全く、元気なものだ。しかし、子供らしくて良い。  確かに、気持は理解できる。しかし、今は風が強い。“私”が心配しているのもそのせい だろうと思う。  何しろ、木の上だ。突風に体を持っていかれたら、ただでは済まないだろう。 “大丈夫だよ! だいじょ、あっ――”  木の枝が、折れた。そして少年は、宙に放り出された。 「…また……夢」  アイゼン=リリーが目を覚ました時、最初に飛び込んできたのは、真白に染まった 空だった。  3人は、吹雪の中にいたのだ。 「…コルチ?」  リリーは、傍らで体を縮ませて震えているコルチの姿に気づいた。何故コルチが このような状態になっているのかが、リリーには分からなかった。リリーとて決して 厚着ではないが、何ともなさそうな顔をしている。対してコルチは、歯をガタガタと 鳴らして、顔面蒼白でとても辛そうだった。白い息が、一定感覚で鼻と口から漏れている。 「どうしたの、コルチ」 「…急に、寒くなってきて……」 「寒い?」 「リリーは……寒くない……?」 「…辛いのね、コルチ? 私にできることは、なにかある」  コルチは、そう言ったリリーの手を、握った。 「…暖かい」  リリーは、コルチの小柄な体を抱いた。全てを悟ったのだろう。 「こうすれば、いいの」 「うん……リリー」  その時――ゴレムが大きく揺れた。リリーは瞬時にル・レーブを繰り、ゴレムの顔に 巻き付ける。片手でコルチを抱いたまま、リリーは遥か下を見渡した。 「…真白な、島……」  この島だけを見ると、世界は白一色のように思えるだろう。  それほどに、雪ばかりの島だった。 “ここなら、ゴレムが出歩いてもいいかもしれない”  リリーは思ったが、そんなことを考えるまでも無く、ゴレムは歩いていた。  実際、上から人間の姿は全く確認できず、問題は無いものと思われた。 「…リリー……ここ、別の島?」 「ええ。ここは、あなたのいた島より西にある島だから……そうよね? ゴレム」  リリーはゴレムの頬に耳を当てた。リリーが頷いたので、肯定の言葉を述べたのだろう。  リリーはあの後ゴレムに「西へ行って」と頼んではいなかったが、あれ程暴れた後にも 拘らず、前に姉が言ったことを覚えていて、忠実に実行したのだろう。 「…そうか……あたし、本当、抜けられたんだ……」 「そうよ。ここは、違う島。もうあんな野蛮な人ばかりの島ではない――と思うわ」  それから、コルチは何も話さなかった。リリーも暫く黙っていたが、やがて、 「…コルチ?」  吹雪で乱れた髪を整えながら、リリーは言った。 「コルチ、大丈夫? コルチ」  反応は、ない。 「コルチ」  リリーは、ゴレムに言った。 「…御免、ゴレム。私、下に降りて、家を探すわ」  リリーは、コルチを背負って飛び降りた。 U  根雪であった。  雪は深く降り積もっており、アイゼン=リリーの下半身を包んだ。  ドレスのスカート部分が水で濡れた。それを引きずりながら、リリーはひたすら 進んで行った。  ゴレムは先行して行っている。降りたリリーの方が進行速度が遅いということである。 しかし、ゴレムの肩からでは下が霞んで見えた。リリーが探しているのは人間だ。 人間の住む民家である。ゴレムの上からでは見落とす公算が高い。  リリーは、雪の下に確かに存在する地面を感じ取りながら、歩いた。  そうしている間にも、コルチの体力はどんどん落ちていっていた。  心臓の音が、リリーに伝わる。歩きながらも、リリーはそれを敏感に感じ取っていた。 “まだ、大丈夫。けれど、少しずつ音が弱まってきている”  コルチは、小さく息をしていた。確かにまだ、生きている。だが――命は、どんどん か細くなってもきている。  リリーは、純粋に、寒さというものは恐ろしい、と思った。  寒さは、体力をこんなにも奪ってしまう――と。  そして、寒さを全く意に介さず動ける自分自身を、訝しく思った。  降りてからどのくらいの時間歩いただろう。リリーは内心焦っていた。  探せど探せど、民家は無かった。  ゴレムも、顔を左右に動かし、必死そうに探している。それでも、やはり見つけられて いないようである。  コルチの音は、徐々に、しかし確実に、小さくなってきていた。  リリーの両手は、コルチの背中の肉の感触を覚えてしまっていた。それが分かるほど、 コルチは薄着だった。今思えば、シャガ島は温暖な島であり、防寒着などさほど必要では なさそうだった。だからコルチは、白いローブ一枚を纏っただけで、この極寒の地へと 足を踏み入れることとなってしまったのである。  リリーは、はじめて祈った。 “どうか、コルチを助けて”  何に祈っているかは、彼女自身分かっていなかった。それでも、疑うことなく祈り続けた。 “コルチは『生まれ変わりたい』そう言ったわ。それは、死にたいという意味ではなかったはず” “生きたいと望んでいるいきものが生きられないのなら、この世界には絶望しか残らない” “こんなところで、死ぬべき人間ではないでしょう?” 「御願い……どうか――」  ――リリーの動きが、止まった。  そして、数秒の後、再び歩き出した。今までよりも速度を上げて。  リリーは、ある方向に向かって、一直線に進んでいる。脇目も振らず、真直ぐに。  白に染まった世界の遠くに小さく、暖かい木の色の塊が見えたのだ。 「あった……あった、あったわ……」  その中は、天国だった。  暖炉の中では薪が燃え盛り、それが人間の住める空間を形成してくれている。  家の造りはしっかりとしていて、熱が外に逃げることも無いし、寒さが入り込む こともない。  家の中には、他にベッドやキッチンがあったが、大部分を占めていたのは、ボタンや レバーの沢山ついた、妙な形状の巨大な窯のようなものだった。  そして、暖炉の近くにはロッキンチェアーがあり、老人が座っていた。 「…次は……何を創ろうかのぉ……」  老人は暖かさのせいか、うとうとしていた。  その時音がして、急激に室内温度が下がった。  老人は眠気も覚めて、ドアの方に目を向けた。そこには、黒いドレスの女がいた。 「何者だ、アンタは」 「私は、アイゼン=リリー。どうか、御願い。この子を助けて!」  女は、アイゼン=リリーと名乗った。背中に背負った少女は、小さく震えていた。 「酷い熱だよ……」  老人は、自分のふかふかなベッドに、コルチを寝かせてやった。 「しかしアンタ、無茶じゃ、これは。なんだい、この娘さんの薄着は」  老人は言って、コルチが先程まで羽織っていたずぶ濡れのローブを両手の指で 摘み上げた。コルチは、老人お手製の厚手の肌着を上下着せられていた。 「これ一枚しか着ていなかったぞ。これでは、ぶっ倒れて当然じゃ……お前さんら、 どこから来た?」 「私達は……遥か西の、シャガ島というところから」 「シャガ島? そんな島があると……どうやって?」 「…え?」 「どうやって、ここまで辿り着いたんだ? その、シャガ島とかいうところから。 まさか船ではなかろう?」  どうしよう、リリーは狼狽した。  思えば、こうしてはっきりと「どういう手段でやって来た?」と訊かれたことは、 今までなかった気がしたのだ。  しかし、こうも思った。いきなりの訪問者を、手厚く迎えてくれたこの懐の深い 老人ならば、知られても構わないのでは――と。それに、知られて何か不穏な動きを されたとして、他に人間はいない。  問題はないわ。リリーはそう判断した。 「私達は、巨人に乗ってここまでやって来たの」  あえて“弟”とは言わなかった。リリーも、それなりに学習をしていたのだ。無用の 詮索を受けることは、良いことではないと思った。  勿論、弟のことを巨人などと呼びたくはなく、リリーは心の中でゴレムに詫びた。 「…あの、窓の外に突っ立ってるデカいのかい?」  リリーの読みどおり、老人に変わった様子はなかった。ただ、眺めているだけだった。 目つきが幾分鋭くなって見えたのが、唯一気に掛かったものの。  やがて、老人はリリーに向き直った。目つきは元に戻っていた。 「あれには、難儀しておるだろう」 「え?」 「あれだけ図体がデカいと、他の島では苦労したじゃろう」 「…ええ、とても。あの子にも、悪いことをしてしまった」  暴走を思い出し、心の痛みを思い出し、リリーは思わず俯いた。  それを見て、老人はニヤリとして、 「創ってやろうか」 「…何を?」 「あいつを隠す道具さ」 「隠す……そんなことが、出来るの?」 「あぁ。ワシが今から言うモノを、採ってきてくれればな。なぁに、あの子が目を覚ます までには終わる仕事じゃて」  リリーは外に出た。獣の毛で編まれた赤いコートと帽子を被って。  コートと帽子は、最初必要ないと断るつもりだった。しかし、たとえ必要なくとも、 好意から来る勧めは受け取っておいた方がいいだろうし、その方が状況から鑑みて 不自然ではなさそう、と思った。  ここまでの旅で、どうやらリリーも世を渡る術を身に付けつつあるようである。 「ゴレム」  待っていたゴレムが、リリーの傍に来た。 「ここから北西、山あいに向かって。あなたにとっても、いいことよ」  リリーが家を出る前、老人は言っていた。 「帰ってきたら、ゆっくり話そうや。あんたの知りたいことも教えてやろう」 V  風景だけ見れば寂寥としているといえるだろう。しかし音というものがある。吹雪は 身を切り裂くような鋭い風音と共に舞っていた。そうなれば、それはもはや寂寥などと いう言葉とは不似合いな風景となった。  そんな中を、ゴレムは嬉々として進んでいた。これ程長い時間大地を踏み締めたことは、 少なくとも眠りから目覚めた後なかったからだろう。彼は歩きながら、後ろを振り向いた。 自分の通った後に、巨大な雪の窪みが出来る。そんな光景が、何故だか楽しくてたまらない のだという。  アイゼン=リリーは、弟の声を満足そうに聴いていた。ゴレムが嬉しいと私も嬉しいわ。 これまでゴレムに我慢を強いていたことを気に病んでいたのだ。こうして水の張っていない 大地を歩けるというのも、タイミングのいいことだわとリリーは笑って、ゴレムの頬を撫ぜた。 「…おかしいわね」  二人の向かっている先は、老人の家より北西、山あいにぽっかりと鍵穴のように空いた 空地だった。そういう場所があると、リリーは老人から聞かされ、そして乞われていた。 確かにそれは存在したが、そこには何もなかったのだ。リリーは空を見上げた。確かに、 背の高い山の岩肌に囲まれたそこから顔を上げると、空がまるで鍵穴のように見えた。 ここだろうとリリーは確信していたが、老人のいう『怪物のような生物』の姿はどこにも 見当らなかった。  狩りにでも行っているのかしらと呟いて、リリーはゴレムの頬に耳を当てた。ゴレムは 姉に危機を告げた。それを聴いて、リリーはまた空を見上げた。その目を岩肌の先を 見通すように――すなわち山の向こうまでを見透かすように強めて、そして耳を働かせた。 肌の感覚を鋭敏にした。雪の当たる感覚を追い出し、ただ1つ、山の方から迫り来る、 微々たる振動のみを感じ取っていた。それの正体までは、リリーには分からなかった。 ゴレムの頬に耳を当てると、ゴレムは雪崩だと言った。ただそれだけじゃないとも言った。 それは――何か、とても大きな生物だ! ゴレムはリリーに叫んだ。そして次の瞬間、 リリーを鍵穴の外に放り投げた。 「ゴレム!!」  リリーは、遠くなった空地に向かって叫んだ。雪に埋もれてしまったことが遠目からでも 明らかに分かった。ゴレム! 届かないと分かっても、叫ばずにはいられなかった。リリー は己の貧弱を恨んだ。しかしその時、雪の中から巨大な“2つ”が立った。1つは勿論ゴレム であり、そしてもう1つは、ゴレムより縦も横も大きい、巨大な象の如き生物だった。 ゴレムは巨大象から突進を受け、空地の奥の岩肌に叩きつけられた。大量の雪が、ゴレムの 頭上に落ちてきた。ゴレムは驚愕していた。自分と同じ位の大きさのものを見た記憶は おぼろげにあったが、自分より大きなものがこの世界に存在するとは、終ぞ想像したことも なかったのだ。  巨大象は何度か突進を続けた。しかしゴレムは抵抗しようともしなかった。ゴレムには 本来闘争心がなかったのだ。シャガ島で大暴れした姿は、そこには欠片も見られなかった。 結局のところ、ゴレムを立ち上がらせたのは―― 「立ち上がって! ゴレム!」  お姉ちゃんが言うなら、とゴレムはすっくと立ち上がった。巨大象は、ゴレムに再び 尻餅を突かせようと突進を仕掛けてきた。ゴレムはしかし、巨大象の2本の牙を掴み取り、 逆に岩肌に叩きつけてやった。リリーはすかさずル・レーブを繰り、ゴレムの肩に戻って きた。 「なんとか気絶させて。あの牙だけが欲しいの……」  自分の吐いた言葉が、ちくと胸に刺さった。何という身勝手な行為だろうか。あの 生物は、私達さえ訪れなければ、平穏無事に暮らしていたものを。だけれど、それでも、 私は、あの牙を手に入れなければならない。ゴレムのために。ゴレムは姉の思いを 感じ取っていた。お姉ちゃんは、ぼくを想ってくれている。その気持に応えたい。 そう思って、既に体勢を立て直していた巨大象を見据えて、腕を振り上げた。だが。 「!」  巨大象は、その太い鼻を精一杯働かせて、吸引した。凪いでいた空地の空気が突然、 轟音と共に猛り出した。その吸引力は凄まじく、ゴレムの重い体はともかくとして、 リリーの120sを超える重さなど米粒のそれと変わらなかった。リリーは瞬間 ル・レーブを繰り出しゴレムの額に巻き付け、何とか堪えていたが、それも時間の問題 であった。  リリーの握力を超える程の吸引力は、いつまでもル・レーブの柄を掴ませていては くれなかった。リリーは巨大象の鼻の中に吸い込まれていった。  鼻の中から、ゴレム……と、聴き取れない声がした。しかしそれは、ゴレムには 聴き取れた。愛する姉の助けの声が、聴こえないはずがなかったのだ。  ゴレムは巨大象の、鼻の下の口元に拳を見舞った。そして体勢が揺らいだところを さらに蹴り上げ、仰向けにさせた。口元を踏み上げたまま、ゴレムは長い鼻の先端を 両手で掴んだ。そして一気に引っ張り上げた。鼻は、根元から千切れ、多量の鮮血と 共に、黒いドレスの女が空を舞った。  ゴレムはそれを見届けた後、ひたすらに巨大象の口元を、腹を、足を、牙を傷付けぬ ように気遣っているかの如き慎重さで、踏み続けた。やがて巨大象は絶命するが、それでも 踏み続けていた。リリーは背を向けて、岩肌を伝って歩いた。それは、ある種の防衛機能が 働いてのことだった。リリーは、ゴレムの狂った姿を見たくはなかった。そしてそれが、 自分に起因して起こった事柄だということも認識したくなかった。それは身の防衛だった。  少し歩くと、同じ位の大きさの空地があった。鍵穴とは程遠い、ボコボコした体であった ので、すぐに記憶から抹消していた。  そこには、大きな窪みがあった。雪は積もっていた。しかしそれでも尚埋まらないほどに、 深い窪みだった。それは足跡だった。とても、見覚えのある形の。リリーは、後ろを 振り返った。そして、吹雪舞う雪原に刻まれた、生まれたての窪みと見比べた。その2つは、 違和感なく重なった。  じっと、空地の足跡を見ているリリー。やがて、足音がして、リリーの背後にゴレムが 立った。ゴレムもまた、空地の足跡を見ていた。リリーは見上げて、ふっと笑いながら、 ル・レーブを繰った。 「不思議な偶然もあるものね。ゴレム」  両手に血染めの2本の牙を手にしたゴレムが、老人の家へ戻るため、一歩踏み出した。 吹雪で先は見えないが、足跡は残っている。その巨大な足跡は、そう短い時間で隠れて しまうものではない。 W  この一帯の中で、老人の家だけが、生物にとってこの世の天国といえる場所なのかも 知れない。暖炉のお陰で暖かい室内。安息が約束されるベッド。コルチが、ある意味 安心して体内の菌との闘いに精を出せている理由である。  熱は、アイゼン=リリーが出て行った時と比べて、また少し上がっていた。息も荒く、 汗も噴き出しているが、この苦しい峠の登りを乗り越えられれば、容態も安定すること だろう。コルチは先程から呻きながら何度も、リリー、リリー……危ない、大きな化物が 山から……吸い込む力が強いわ……気をつけて、リリー……。あの山の巨大象のことを 知っている筈はないのにと、老人は内心驚きながらそれらを聞いていた。やがてコルチが 安らかな顔で、涼やかな寝息を立て始めた。少し良くなったのかと思ってからすぐ、 振動を感じた。振動はどんどん近付いてきた。老人は、口髭を撫ぜた。  アイゼン=リリーとゴレムの姉弟の帰還であった。 「よくやったのぉ、アンタも」  老人は、リリーが重そうに抱えている2本の巨大な牙を見て、喜んで言った。 「まさか“山の神の使い”をこれ程早くに倒してくるとは」 「私の力ではないわ。ゴレムの手柄よ」  リリーの表情は、決して明るいとは言えなかった。しかし穏やかそうに眠っている コルチを見ると、少し救われる気持がした。 「…山の神の使いとは?」 「ああ。あれは、ただの生物じゃないのだよ。あれは、“我々の神”によって造られた命 ではないんじゃ」 「別の神が造った命……?」 「お前さんらも見ただろう。あの、雲を突き破りどこまでも伸びている山を。あれは、 ここより北の人間達から霊山と呼ばれる山でな。我々とは別の神があそこにいると、 旧くからの伝承でな――」 「…神?」  リリーにはそもそも、“神”という存在がどういったものなのかが理解出来なかった。 我々……私達……私と、ゴレムも、その神に造られた存在であるということ? 「…つまり、お前さんらが倒した化物は、我々とは違う神から生まれ出でてきた生命の一種 ということじゃ。科学的な根拠は全くないがな。それでも、北の人間は頑なに信じておるよ。 ま、ワシもそこで生まれた人間なんだが」 「御爺さんは、信じていないの?」 「まあ、他に呼びようも無いんで神の使いだなんだと言うとるが、殺すことに抵抗はない。 なあアンタ。アンタは、信心とはどれ程根深く、強いものだと思う?」 「信心?」  また、よく分からないことを言われた。リリーは無言になった。老人は言う。 「独りになると、よく分かる。あれの根底にあるのはな、怖れだよ」 「怖れ……人に対する、怖れ?」 「そう。その気になれば、神など怖るるに足りぬのだよ。神は明日の食い物を恵んでは くれんからな。独りであれば、他人が存在せん。人と違うことを怖れる必要はないのじゃ。 勿論、本当に神への信仰に熱心な輩もおろうが、そんな奇特なモン極々少数で、ほとんどは 他人と違うことを、迫害を怖れる一般市民達なのだよ。教会は、“神の子を殺すな”という。 そうじゃ、北の街にはな、2つの教会がある。1つは、我々の神の教会。そしてもう1つが 山の神を敬う教会じゃ。どちらも殺生はイカンと言うとるが、山の神の教会は、人間の生命 より山の神の生み出した生命を大事にすべしという教えで一貫しとる。気をつけることだ」 「つまり……御爺さんは、神をそれ程大事にしていないということ?」 「神さんは、我々を救ってはくれんさ。人は、自分の力で立ち、歩かねばならんものだ。 …こんなことを、街で言ってはいかんぞ。信心深い連中は、酷いことをするからなぁ」 「…神って、何なのかしら」  分からないことを分からないままにするのは、一番いけないことだ。リリーは老人から その答えを引き出すために呟いた。しかし老人は、笑ってこう言うのだ。 「ワシにもよぉ分からんわ」  次の日、老人は2本の牙を、定期的に現れるという行商人の一行に渡し、大量の食料と 燃料を得た。牙は北の街で加工されて、金持ちに高値で売りつけられるのだという。山の 神を信じる人達が怒り狂うのではないかとリリーは思ったが、人間などいい加減なもので、 加工すれば分からないのだという。  老人は、1週間くれとリリーに言った。コルチの体調のこともあり、それを快諾した。 2、3日が経つと、コルチはすっかり元気になり、子供らしくリリーとカード等で戯れたり、 厚着をしてリリーと共にゴレムの肩に乗り、一面の銀世界に心ときめかせながら散歩したり した。シャガ島にいた時とはまるで人が違う様子で、リリーはいかにあの場所でコルチが 圧迫されていたかと切なくなって、また嬉しくもなった。老人は、釜の前に食料を供え、 暖炉の前、ロッキンチェアーで揺れているのみだった。  そして、約束の前の夜。リリーは、薄暗い闇の中、仄かな光を感知し、目を覚ました。 X  隣ではコルチがすやすやと寝息を立てている。アイゼン=リリーはコルチを起こさない よう静かにベッドから抜け出た。寝惚け眼を二、三度擦り、今度はしっかりと、薄い光の 中心を捉えた。中心にあったのは、巨大な窯のようなものだった。  そして、その光の中に老人の姿があった。ロッキンチェアーを揺らしもせずにただ じっと窯の中を眺めている。どうやら光は窯の中から漏れ出ている。声を出すのが憚られて、 リリーはそっと老人の背中に近づく。光は至極淡い。だからこそ、光が目に刺さることも 無く光源を見通せる筈なのだが、それが出来なかった。リリーは小さく首を傾げた。  ふと老人、あんたには見えるかい? リリーはいいえ、何も。 「そうか。この方々はやはり、並の生物ではないんじゃろうか……いや、そもそも、 生物と呼んでよいものなのか……」  光の中心にいるのは、リリーには見えない、老人には見える、特殊な存在なのだという。 老人は、ぼそぼそと呟く。不思議とリリーに向かって話している雰囲気はなかった――  …ワシは30年ほど前、北の街を出た。当時は地道に仕事をこなす家具職人じゃった。 修行を積み、日々の生活に支障が出ん程度に稼げるようにもなっていた。  だが、限界を感じた。街を出る二、三年前から常に感じていたよ。これから自分が どの程度の人間になれるのか、ワシは30の頃には分かってしまった。家具職人の中で ひとかどの人物になることに、どれ程の意味があろうか。子供の頃から、ワシは物作る 手を持ち、何でも作れた。神童とも呼ばれた。子供の頃のワシには無限の可能性があった。 靴職人にもなれたし、鍛冶職人にも、菓子職人にも、宝石細工職人にもなれた。そんな中で 家具職人の道を選んだのは、家具職人しか弟子の空きがなかったからじゃ。ワシは自分の 家具職人としての技術が頂点に近づいた頃、その事を思い出したのだ。  30も過ぎて、愚かだと思うか? リリーは小さく首を横に振る。  …ワシは、万能職人になりたかったんじゃ。そのことに、30を過ぎた頃やっと気づいた。 そして、これは今でも偶然とは思えんことなのだが……その、煮詰まっていた時期に、この 方々が工房を訪れた。そう言って老人は、光源をちらと見た。相変わらず、リリーには何も 見えなかった。  …見事なものじゃったァ。仕事ぶりは極めて勝手気侭。材料さえあらば鞄も靴も菓子も、 瞬きする間に作ってしまうのだからなあ。話には聞いていたが、この目で見るまでは 信じられなかった。南の森――ここから北に、かつてあった森じゃ――には職人妖精が いる。彼らは、夜ふらりと人里に現れ、食料を盗み食いする。そしてその時の気分次第で、 素晴らしい品を作り置き土産として置いていく……ワシは、その時ばかりは神を心底から 信じた。きっかけを与えられた気がした。満足して出て行った職人妖精達を、ワシは執拗に 追い掛けた。また、愚かだと思おうが、ワシはこの方々に弟子入りするつもりでいたのだよ。 全く、確かに、人が聞いたら笑うじゃろうな……笑う老人に、いいえ、希望に溢れていて 素晴らしいわとリリー。ありがとうよ、リリー。そう老人は優しく言うのだ。 「…偶然とは思えん、とワシが言う理由はもう1つあってな――南の森が、なくなっていた んじゃよ。追い掛けて行ったら、どこにも森がない。あるのは、夥しい数の切り株だけ じゃった」 「…かつての御爺さんの家に、職人妖精がやって来たその夜には……」  老人は頷いた。あの夜だけは、気まぐれではなかったんじゃ。行くあても無く、ワシの 家に迷い込んできたんじゃ。運命を感じたよ。この方々には申し訳ないが――ワシは、 この上なく幸運だと思ったさ。  その後、ワシは予め持ってきていた保存の利く食料で職人妖精達を先導し、街から遠く 離れた、森よりさらに南の雪原に、とりあえず雪が凌げる程度のものだが、掘立小屋を 建てた。妖精とて雪は嫌なものらしく、小屋の外には滅多に出なかった――普段は光り もせず、隅の方でじっとしておる。この小さな方々は、常にこの家の中におったのだよ―― ワシはそれからひたすら木材をかき集めた。防寒着を身に付けていたとはいえ、寒さは 如何ともし難く、とても辛かったが、木材を集めるたび、みすぼらしい掘立小屋が立派に 育ってゆくのを目の当たりにすると、苦しさも吹き飛んだ。材料集めを始めて10日程で、 今の形になったのじゃ……リリーは四方を見渡し、目を回した。10日で出来る家とは、 到底思えなかったからである。 「…見えないけれど、そんな彼らが今、作ってくれているのね」 「ああ。アンタと、アンタの弟のための道具をな――これは経験則だが、妖精は、人の心を 善く汲んでくれる。この方々は、人の目を見て、想いを掬い取るのじゃ。アンタも、ワシと 同じ場所を見るが良い。そして、想うんじゃ――どうじゃ、まだ見えんか」  あ。リリーの視界に、ぼんやりと今まで見えなかったものが浮かび上がってきた。それは、 集団で姉弟で採ってきた巨大象の牙の小さな欠片を取り囲んでいる、背中に羽の生えた ちんまり可愛い人型の姿だった。それが、妖精だった。リリーは想う。どうか、ゴレムを助けて。 あの子はもっと外で沢山遊びたいの。まだまだ子供なのだもの、可哀想だわ。どうか、 人目を避けられる道具を……ゴレムに、私達に、与えて―― 「見えたか……ああ、布ですか。しかし、いつ見てもいいですなぁ。いつか私も、あなた方が 創るような物を創ってみせますわ……死ぬまでに、必ず――」  老人は、子供のように目を輝かせて、職人妖精達の仕事を食い入るように見つめていた。 リリーは、目を見開いて想い続け、コルチは変わらず寝息を立てていた。ゴレムは、山あいに 刻まれた巨大な足跡を棒立ちで眺めていた。  そして夜は過ぎ、職人妖精達は仕事を終えた。出来上がったのは、ゴレムをそのまま覆えそうな 程、巨大な白い布だった。  特別な朝だった。リリーとゴレム、そしてコルチがこの家を発ち、話に聞いた北の街へ 向かう朝だった。だが、コルチの表情は硬かった。心に潜めている思いがはち切れそうに なっている、そんな顔をしていたのだ。 Y 「…どうしたの、コルチ」  アイゼン=リリーが察して、そう言った。コルチは、厚手のコートを纏うその身を小さく くねらせていた。それを見かねて、老人はそっとコルチの肩に手を置いて、言いたいことは、 言えるときに言っておいたほうがいいと囁くように伝えた。そして、コルチはようやく 口を開いた。白い息が漏れ、空へ立ち上りて消えて行く。 「…あたし、あたし、まだ、リリーに話していないことがある……今日まで、何度か話そうと してきたのだけど、なかなか言えなくて……でも、“おじいちゃん”がこうしてくれている から、今なら話せるような気がして――ううん、今言わなければ、ダメなの」  コルチの表情から浮き上がっている、憂い、怯えを見て取ったリリーは、これから始まる 独白をしっかりと聞いてあげなければならない、と心に定めた。コルチは、意を決したように 顔を上げて、リリーと目を合わせたり、また逸らしたりした。 「コルチ、安心して」 「えっ」 「これからあなたが、どういったことを話すのかは分からない。だけれど、私は何を聞いても あなたに嫌悪を抱くことはないわ」  リリーはそう言って、コルチの冷たくなった手を包んだ。コルチは、リリーの手の冷たさに 一瞬顔をしかめた。しかしすぐに、奥から暖かさが顔を出してきた。そういえばと、コルチは 思った。ここに足を踏み入れた最初の日、リリーの弟という土巨人から感じたのと同じ暖かさ だ―― 「…不思議な暖かさ……」 「話が終わるまで、私はずっと手を握っているわ。どんな話でも、私はこの手を離さない」  それは、リリーの思いやりだった。コルチには、リリーの優しさが視えた。心を見れば 分かる。リリーは一片の曇りも無く、本当にあたしを思ってくれている。  それが、辛い。 「…あたしね、家族を皆殺しにされたんだ」  老人の表情が険しくなった。リリーは、やはり、と思った。それをコルチは視て、ああ、 リリーはお見通しだったんだなあと心の中で苦笑した。 「それを実行したのは……」  リリーは、スナップドラゴン山賊団の頭――カラマの姿を心に浮かべた。 「…そう、カラマよ。あいつが……父様の首を刎ね、部下によって母様を犯し、自分は、 若くて美しかった姉様を……」  コルチは、震えていた。リリーには分かった。コルチは怖れているのだ。過去と向き合い、 記憶を反芻することを。今のコルチを形成した出来事。コルチには悪いが、知りたい。 知らねばならないとリリーは思った。そして手に力を込めた。何を聞いても、私はこの手を 離さない……リリーのこの強い思いがなければ、果たしてコルチは、凄惨な過去を反芻出来た だろうか。老人が肩に手を置き、リリーが手を包んでくれる。2つの優しさがあるからこそ、 コルチは、どこか安心して過去に飛び込むことが出来ているのだ。 「…カラマは、野心で出来ている人間だった。初め、あいつは、父様に協力するよう言って いた。勿論父様は拒否したわ。“占術師は、私利私欲の争いのために存在するのではない” そう言って、ね。」 「…立派なもんじゃ。嬢ちゃんの親父さんは、自分の仕事に対して真摯で、実直な人間だった んだろう」  老人の言葉に頷くコルチとリリー。 「父様は立派だったわ。だけど、それがカラマの怒りを招いてしまった……あいつは、山賊団の 全戦力を投入して、家に襲い掛かってきたのよ。使用人たちは皆殺されたり、さらわれたりした ……父様は、噴火したみたいに、感情を爆発させたわ。あんなに我を失った父様を見たのは、 あれが、最初で最後だった。カラマに食って掛かった瞬間、父様の首が体から離れた―― そして、奴は言ったの。“末の娘で代用出来るだろ”って! カラマはそう言って、笑って…… そして、獣の目で、ルウ姉様を……!」  リリーは、自らの心の軋む音を聞いていた。コルチの怒りが、悲しさが、苦しさが、悔しさが、 心を締め付けている。そしてリリーの心に満ちたのは、怒りだった。 「…ありがとう、2人とも、私のために……」  コルチ自身、不思議な気持だった。2人はとても怒っている。しかし、それが嬉しくて仕方が 無いのである。コルチは今、幸せを感じていた。全てが変わったあの日以来、一度たりとも感じた ことのない幸せに包まれて、コルチは泣くのを堪えて、笑った。 「うん、言えて、少しすっきりした……リリーとゴレムが行ってしまう前に、言っておきたかった から――」 「…え?」 「リリー……あたし、おじいちゃんと一緒にいる。リリーとは、もう一緒に行けない」 「…そんな、どうして」  リリーは狼狽していた。これまでに感じたことの無い、切ない感情が満ちてきていた。 「前、シャガ島で“リリーの未来は見えない”って言ったけれど……リリーと長く一緒に 居たからか、少しだけ見えるようになったの。リリーの未来に、あたしは居なかった。それは、 “居てはならない”、ということなのよ。リリー。ここから北へ行くと、小さな街があるわ。 そしてその背後には、巨大な山脈が走っている。山脈を越えていくとまた違う、今度はとても 大きく、強い街があって、その先は深い深い海――そして、あなたは、あなたと深い関わりの ある人と出会うことになる」 「ちょっと待って、コルチ、居てはならないとはどういうことなの? あなたが大事なのに!」 「占術師は、先を視てしまえるから……その、視えたものに逆らうことは出来ないの。それが、 唯一絶対の掟。未来を見通せるものが、自らの勝手でそれを作り変えてしまったら、それはもう 人間ではなく、神のようなものでしょう? だから、ダメなの……あたしだって!」  コルチは、その先を言わなかった。リリーは、うなだれて、手を離した。 「…リリー。あたし、あなたのお陰で、“幸せに生きていいんだ”って思えたのよ。 ありがとう、本当に、ありがとう。さあ、行って」 「…………」  リリーはうなだれたまま、何も反応しなかった。 「行って! 早く行ってよ、リリー!!」  コルチは、いつの間にか涙声で叫んでいた。コルチだって、辛いのだ。私を嫌いになった わけではないのだとリリーは思った。リリーは顔を上げ、コルチを一度抱きしめた。そして 身を翻し、その後は一度も振り返らずに、ゴレムの肩に乗った。 「リリー! 大丈夫、また会えるわ! さようならは少しの間だけよ、リリー!!」  この言葉は、占いでも何でもない、コルチの願望だった。コルチと老人は、去り往くリリーと ゴレムの背中を、吹雪で隠れて消え去るまで、ずっと見ていた。 「…さあ、嬢ちゃん、家に戻りな。また熱出しちまうぞ」 「うん。これからよろしくね、おじいちゃん」  老人は笑顔で頷いた。コルチは、目の下の少し凍った涙を人差し指で軽く払い落として、 暖かい暖炉の待つ家へと戻って行った。そして家に入る前に振り返って、大きな声で、 「おじいちゃんのこと、本当の家族と思っていい!?」  と、子供らしく言った。その表情は、憑き物が取れたかのように明るかった。 「当たり前じゃ!」  老人もまた、大きな声で返した。コルチは笑顔で家に入って行った。老人はそれを見て 微笑んでから、今度は物憂げな顔になって、 「…不思議な暖かさ、か」  老人は、思い返していた。数日前、老人は2人の寝静まったタイミングを見計らって、 外で眠っていたゴレムに触れていたのだ。その時感じた奇妙な暖かさは、コルチの言う “不思議な暖かさ”と同じ感想を老人に抱かせたものだった。 「…ただの土で出来ているように見えて、その実凄まじい強度。だがあれに鉄の冷たさはなく、 触っているとやがて、じんわりと、人肌に近い熱を感じるようになる……あれは確か――」  老人の脳裏に浮かんだのは、数十年前に出土した、旧時代の遺物だった。 「…まさか、な」  そう呟いて、老人は体を一度大きく震わせた後、暖かい家へと戻って行った。  ゴレムは、リリーに話しかけた。大事な存在から離れることとなった姉を案じる言葉である。 「…ゴレム、私、強くならなければね」  リリーは、ゴレムにそう返した。 「これからはきっと、もっと険しい道が待っているのよ。私も、ゴレムくらいに強く ならないと、足手まといになってしまいそう」  リリーは、ぽつりと言う。 「海を往けば、山をやり過ごせるでしょうけれど、それは違うのだわ……だって、コルチは、 “海を回って”とは、一言も言っていなかったもの」  コルチの言葉を胸に刻み、リリーとゴレムは進む。 【アイゼン=リリーと足跡/了】