アイゼン=リリーとゴレムの姉弟が、雪の吹き荒ぶロべリア大陸南部を北上しているのと 同じ頃――  この島に群生する植物とはどう見ても溶け込んでいない深紅のドレス。そして、頭に付いた 薔薇の飾り。  全身に赤を纏った女が、似つかわしくない場所に立っていた。目の前には穴二つ。小さい穴と 大きい穴。女は暫くそれを眺めていた。 「おかしなことだわね……」  ランドモス島。灰色がかった二つ縛りの黒髪と、特徴的な三白眼を持つ、赤ドレスの美しい女。 「あの子の方が、早いだなんて」  そう女は、呟いた。背後には、巨大な土人形が立っていた。 【アイリス】  その家は、溜息で満ちていた。 「…まあ、こうじゃないわな……」  男はまた1つ溜息をついて、途中まで絵の描かれた紙を丸めて、既に満杯になったゴミ箱に 投げ捨てた。そして、フケだらけの頭をくしゃくしゃと掻き毟って、こうじゃないんだ、と 何度か呟くように小さく叫んだ。 「アイゼン=リリーは……こんなものではなかった……」  男は無料の批評家だった。しかし男は秘かに絵も描いていた。ラフスケッチなので粗く見えるが、 かなり手馴れた筆捌きのようだった。男の名はセロスといった。  彼の中で、アイゼン=リリーの存在は日に日に大きくなっていっていた。彼の夢の中には、 毎日のようにリリーが顔を見せた。夢の中、満月で照らされたリリーはセロスに笑顔を向け、 弾むような伸びやかさで駆け寄り、手を取って、セロスの知らないダンスを踊った。月明かりに 照らされたリリーの髪は、瞳は、この上なく美しい、とセロスには思えた。  そして今日、セロスは久方振りに筆を取った。 「アイゼン=リリーはもっと美しかった……聡明そうだった……アイゼン=リリーはもっと…… 光、輝いていた」  別れの時、夢の中と同じように月明かりに照らされたリリー。その姿は、セロスに人生で始めて の気持を抱かせた。 「…素晴らしい部屋ですわね」  知らずのうちに扉が開いていた。声がした。女の声だ。  アイゼン=リリー!――セロスは、まるで恐怖を覚えているかのように、そろり、そろりと、 首を回した。 「…アイゼン=リリーじゃ、ない」  その女は、アイゼン=リリーに似ていた。しかし、服が違う。色が違うのだ。髪形も違う。 リリーはストレートヘアーだったが、こちらは二つ縛りだった。  女は赤いドレスをひらひら揺らして、快活な足取りでセロスの前まで来た。 「貴方がセロス? そう。私はアイゼン=リリーではありませんわ。ですけど、都合が良いことに 私が探しているのは、その子」 「…なに?」 「私は、アイリス。貴方があの子のことを良く知っているというから、こんな素晴らしいにも 程がある場所まで、わざわざ来てやったのですわ」  アイリスと名乗った女は、にこやかな笑顔でそう言った。 「…確かに、二週間前までアイゼン=リリーはいたが……」 「お待ちになって」  セロスは、怪訝な表情をした。アイリスは口の前で子供をたしなめるように人差し指を二度 三度振って、 「私、あまり冗長な会話は好みませんの。貴方はただ、これから私の尋ねる事柄について要点 だけ纏めて答えてくれればいいの」  なんだこの女……セロスは心の中で呟いた。そして、こんな女のことを一瞬でもアイゼン= リリーだと思ってしまった自分に対して激しく怒りを覚えた。 「まず……」 「その前に、1つ訊かせてくれ」  女の張り付いたような奇妙な笑顔が、ほんの少し崩れた。  そして一言、 「なあに」 「アンタと、アイゼン=リリーの関係だ。それ位は教えてくれないと、こちらとしても答える 気にはならんな。そもそも、答える義理も無いんだ、こっちには」 「…愚かですわ」 「なに」 「貴方が愚かだと言っているの……その気になれば私は、貴方のその首など一瞬にして 捻じ切ることが出来るというのに――」  多少崩れたとはいえ、笑顔は保たれたままだった。アイリスの、首筋を撫ぜるような青白い 声が、セロスにとっては恐怖だった。しかし、セロスも男である。動揺が現れないよう、必死で 恐怖を内に押し込んだ。あまりの恐怖に、リリーが背中に背負っていたル・レーブと同じものを この得体の知れない女が持っているということにさえ、気付くことが出来なかった。 「――構いませんわよ、教えてあげましょう。アイゼン=リリーは、私の妹……可愛い、 可愛い……妹ですわ」  その笑顔には、確かに、禍々しい感情が潜んでいた。  セロスは女に教えてしまった。  セロスの知る限りの、リリーの旅の目的。  そして、リリーの行先。  アイリスが行った後、セロスは絵を描くこともせず、ただ呆然としていた。 「…アイリス……アイゼン=リリーの姉……?」  セロスは急に、ハッとした。自分が仕出かした愚行に、ようやく気が付いたのだ。 「危険だ……あの女は、あまりにも……すまん、アイゼン=リリー……!」  セロスは、本当に久しぶりに、涙を流していた。それは、悔恨の涙だった。  アイリスは、バーベナ島を発って、北へ向かっていた。リリーがロベリア大陸を北へ向かう のならば、行き着く先はもう定まっている。バーベナ島から北へ行けば、山越えをすることも なく、リリーが行き着くその場所へと辿り着くことが出来ると、アイリスは考えた。 「本当に、いけない子。あの子はどこまでも、“私達”の邪魔をしようとしている…… 許せませんわ、絶対に、許してはならないの……!」  アイリスは、リリーとは別の妹の事を思い浮かべた。その瞬間、体が震えた。もし、リリーに “対話”を邪魔立てされるような事があれば、私は、【サルビア】に――! 「止めて見せますわよ、リリー……殺してでも」  アイリスの笑顔は、いつの間にかどこかへ消えうせていた。そして、乗っているゴーレムの 頭を何度も踏みつけて、口汚い罵声を浴びせていた。 【アイリス/了】