U  ローダンの自宅は、町の端にあった。中は狭く、そして一間だった。家というよりも、 倉庫といった方がしっくり来るだろう。その狭い中には厚手の布が広げられ、人間の生活する だけのスペースが残されているかは疑問だ。  時刻は正午を回ったが、町に響く鐘の音も無視して、ローダンは作業に熱中していた。彼は 朝飯も取っておらず、朝起きてからずっと“空に浮かぶ乗り物”作りに精を出していた。布の 寸法を測り、そして他の布と繋ぎ合わせる。それを繰り返して、1つの巨大な布を作り上げる。 大きさが整ったら、布の端と端をきちんと合わせて、また縫い合わせる。今度は念入りに、 この上なく頑丈になるように縫うのである。そうすると、丸い袋となるようになっている。 慎重に寸法を測っていたのは、綺麗な丸型の袋を作り出すためだったのだ。そして仕上げに、 口の穴の部分が小さくなるように縫った。  これが風船であり、ローダンを空へと連れて行ってくれる物であった。 「ふう」  ようやく1つの袋が出来上がって、ローダンは座ったまま一つ息をついた。しかし、本当に 大きな袋である。空気は入っておらずペシャンコで、部屋に収まり切っておらず、端の方が壁に当 たって皺になっていた。それを見て、ローダンは重い腰を上げ、袋を丁寧に四つ折りにした。これ もかなり力の要る作業だった。布は厚手なだけあって、重量もそう馬鹿に出来たものではなかった。 腰をとんとんと叩く。  やっと一息つけるようになったローダンは、あの女の言葉を思い出していた。 “あなたは、あの山を越えられる?”――  誰しもが、一度は空を飛ぶ鳥に羨望の眼差しを向けたことがあるように、ローダンもまた そんな少年時代を過ごして来た男だった。この町の空は青く澄み渡っていて、人は皆1日に 何度も空を見上げる。 “山の神なんていない。だって、空を飛ぶ鳥は簡単にあのネモフィラを越えて行くじゃないか”  そう、かつてのローダン少年は、幼いながらも、彼にとっては明確な根拠を持って、山の神 崇拝を否定していた。その時から、彼の中に前人未到のネモフィラ山脈を越えるというおぼろげな 目標が生まれた。越えるといっても、四本の手足を使ってちまちまと登って、ではない。あの空を 舞う鳥のように、穏やかに、緩やかに、恐ろしい山の神が棲むといわれる大山脈を気持よく大笑い しながら越えて行きたい――ローダンは、大人になった今でも、その目標を達成するために生きて いた。  しかし、今現在彼を突き動かしているものの正体は、それだけではない。それは嫉妬であり、 怒りであった。  彼は、オレアが彼のショーを見に来るようになってからずっと、オレアのためだけに生きてきた。 そう言い切っても過言ではないくらい、ローダンはオレアに情を移していた。それはオレアが 光り輝くような、どこか人を引き付けるような顔立ちであったこと、病弱であったこと、そして、 自分の面白くも無いパフォーマンスを心から楽しそうに観てくれていたことなど、様々な要因が 重ね合わさってのことだったが、とにかくローダンにとって、もしかしたら空を飛ぶという目標 以上に、オレアの存在が彼の心を大きく占めるようになっていた。  そんな時、オレアの元に、彼が自分以上に心からの笑顔を向ける女が現れた。 「…アイゼン=リリー……」  美しい女だった。硬質そうな、珍しい黒っぽい白の髪の毛。すらりとした体型、そしてそれに フィットしたこれまた黒いドレス。夕陽に輝く、胸元のネックレス。そして何より、高級人形の ような整った顔。  オレアとて、十を少し過ぎた少年とはいえ、男だ。あんな美しい女を目にしたら、心が奪われて しまうのも理解できる。そして、そんな女に優しくされたら……俺だって、骨抜きにされてしまう かもしれない。  ローダンは、鬼の形相だった。  あの女は、俺から大事なものを奪って行こうとしている。  こういう時こそ、“かんがえかた”が必要だ。  夢を追って生きてきたローダンは、“どう生きて行くか”という、人生に於ける最も重大な事柄 を、事あるごとに考え続けてここまで来ていた。彼は、20代後半にして、その途方も無い問題に 対して、2つの答えを見出していた。 “欲しいものを手に入れるには、自ら行動を起こさなければならない” “欲しいものが同時に複数あるのなら、全て取りに行く。それが唯一、本当に幸せになるための方 法だ”  ローダンは、自らの人生論に拠ることに、些かの迷いも持たなかった。  同じ頃、アイゼン=リリーはオークション会場にいた。  町を歩いていただけだったのだが、半ば無理矢理招かれたのである。中を見ると、リリーと似た 服装の女が多くいた。誰かと間違われたのかもしれないわねとリリーは思うことにした。  室内は明かりが点いておらず薄暗かった。もっとも、リリーは夜目がきくのでさして関係は なかったが。  暫くして、明かりが点いた。司会者らしきシルクハットとスーツの男が現れ、大声で挨拶をした。 そしてすぐにオークションが始まった。リリーは金を持っていないのでただ見ている事しか出来な かった。 「では次、いよいよです、38番! 今日の目玉商品です――“山の神の子供の牙”!!」  その時、会場全体が色めきたった。瞬く間に、先程までとは一桁二桁違う額が飛び出していく。 そのどこか気違い染みた熱気に、リリーは内心怪訝とした。始まる前までは我関せずと微笑んで いたある婦人も急に立ち上がり、とてつもない金額を声高に叫んでいた。また別の婦人は、財力の 及ばない所にかけ金が届いてしまい地団駄を踏んで悔しがっていた。恐らく妻の使いで来た のだろう、朴訥そうな男性は周りの勢いに怯え、声も出せずにいた。  ――あれは、きっと私が取って来た牙。  アイゼン=リリーは、遣る瀬無い気持になって、外に出た。 『山の神への冒涜許すまじ』 『祟りが怖くないのか』 『人間は神の所有物である! その人間が神の所有物を所持するなど正気ではない!』 『金吐きども、恥を知れ!』  外では、穏やかではない言葉が刻み込まれた幕を掲げた団体が、決して少なくない人数を揃えて オークション会場を睨み付けていた。客が出てきた途端行動を起こす腹積もりなのだろう。  この町には、2つの神が存在する――リリーは、ここに至るより前、町に入った瞬間から、肌に 張り付くような違和感を覚えていた。  この町は、2つにも、4つにも分断されている……リリーは、団体を一瞥した後、歩き出した。 行き先は、決めていなかった。あまり、気分も良くなかった。老人が出て行きたくなった気持も、 あのローダンという男性が空を飛ぼうとする気持も、今のリリーにはよく理解出来たのだ。  この町は、人の心を沈みこませる。