V 「いてっ」  山沿いの道を行く商人の一団。その中の1人が、何も無いところで躓いた。転んだ男は、 不思議そうに、何も無いはずの空間を凝視した。 「おいおい、どうしたぁ。疲れたか?」  同行者の笑いの混じった声。 「いや、そんなんじゃ……」  どれだけ見ても、そこには何もなかった。おかしい。俺は確かに、何かに足を引っ掛けて、 躓いたはず―― 「ユーチャリスまでもう少しだからさ、頑張ろうぜ」 「…ああ」  ユーチャリス付近の山近くでは、不思議なことに雪がほとんど降らなかった。男は、説明 するのも馬鹿らしいと思い、立ち上がり上半身についた土を払った。男は、最後にその何もない 空間に手を伸ばしてみたが、手に触れる感触はなかった。男は、腑に落ちない様子で軽く首を 傾げた。 「……」 「いつもながら、山の神はお優しいな。自分の子供でもないのに、気を回して下さる」  …ああ、と男も同行者に合わせた。人間のほとんど住まないここより南では雪が降り放題だが、 人間の増えてくるユーチャリス付近では急激に雪が少なくなる。また、商人など、町にない品を 収集するため、度々町を出ることになる人間が多く通る山近くの道にいたっては、全くといって いいほど降らない このことから、商人には山の神信仰の人間が多かった。  男は浮かない顔で、今回の戦果の入った袋を見た。中には、山の神の子供の肉が入っていた。 「…商人っつうか」  男は、ぽつりと言った。虚しく笑いながら。 「ハンターだよな、これじゃあ」 「いいじゃねぇか。戦う商人さんだよ、俺たちゃあ」  彼らが、どのようにして、山の神信仰と相反する行動を正当化しているのかは、定かではない。  空間は那由多にある。  膨大に在るその中の1つ。先程とはほんの少し変わっていた。  何もない空間に存在する“何か”。  “何か”は、静かに一歩、山側に下がり、空間を探る男の手をかわしていた。  それは、“存在を隠す布”をその身に纏った、巨大な土人形だった。  その事実を知る機会が、男からは永遠に失われた。 「…私に?」  アイゼン=リリーはカフェにいた。芳しい茶の香りがリリーの中に入り込んできた。リリーの 目は、対面する男の目を見ていた。  男は、さり気なく目を逸らし、リリーに切り込んでいった。 「そうだ。リリー、君に手伝って欲しいことがある」  男――ローダンは、町を歩くリリーの肩を叩き、カフェへと誘ったのだった。 「俺は毎日、ちょっとしたショーを演っている。目標を達成するためにな。それはオレアから 聞いたか?」 「ええ」 「なら、話は早い。手伝って欲しいんだ」  リリーは、少し戸惑った。オレアから聞いた話を総合すると、ショーというのは、大勢の観衆の 前で道化を演じたり、特技を見せたりして楽しませるものなのだろう。そんなこと、私に出来る だろうか……と。  リリーの不安を感じ取ってか、ローダンは明るい口調で、軽い笑顔を作ってこう言った。 「なあに、大丈夫。難しいことはない。ただ、自分だけの、人には出来ないと思うことを披露 すればいいんだよ。それだけだ。そうすれば、金が貰える。君は美人だからな、客も増える」  金、という単語にリリーは反応した。薄々感じ取ってきていた、この世界における重要な存在。 今のところは、金がなくて困るという経験はなかったが、いずれ必要になることもあるかも しれない。少なくとも、持っていて困るものではないと思った。 「お金……」 「そう、金だ。手伝ってくれたら、分け前をやる。俺が8割、君が2割だ。どう?」  傍目から見れば、かなり不平等な話である。しかしそれも分からないリリーは、少し悩んでから、 「いいわ」  と言った。ニヤリと笑顔を作ったローダンは、 「決まりだな。じゃあ、これを飲んだら、早速練習だ。おっと、これは俺の奢りだから、 安心してくれ」 「ありがとう。でも、私はこの香りだけ美味しく頂いたわ」  そう言って、リリーは口もつけていない自分の茶を、ローダンに差し出した。ローダンは不思議 な顔をしながらも、それを受け取った。あっという間に飲み干し、会計を済ませようとローダンは 立ち上がった。それを一瞥してから、リリーは店の外に出た。  よし。ローダンは、心の中でガッツポーズを作った。そして、心に描いたリリーを、冷たい 感情で窒息させた。  彼は、リリーを“倒すべき敵”と見定めていた。 【アイゼン=リリーとそびえ立つネモフィラ山脈/了】