【アイゼン=リリーとそびえ立つネモフィラ山脈】 T  深い海底に、水圧で常に微妙に軋みながら、それでもかつての姿を留めている建物があった。  その建物の奥の部屋。海水に侵食されていない室内には、女がいた。女は、頑丈そうな、 透明なケースに額を当てていた。 「うん……そう、来るよ、お父様。…違うわ、アイリス姉様だけじゃなくて、もう1人来る。 …ドラセナ? 違う。あの子は、どうしようもなく使えないわよ。もちろん、必要な時が来れば、 首に縄つけてでも、連れてくるけどね――」  白いドレスの女は、くすくすと笑った。三白眼が、無機質な部屋の中で光った。 「お父様、そろそろ、危ない?…でも、大丈夫。お父様の想いは、私が残らず全て受け取って いるから。私は、お父様の忠実な人形……この先は、安心して私に託してよ。お父様の 願い通りに、この世界を変えてあげるから。それは、アイリス姉様にはできない。ドラセナ にも。勿論、あの子にだって――」  女は、ケースから額を離した。そして、口元をつり上げて、 「さようなら、お父様。私は、ゴーレムの準備をしなきゃ。出来れば、アイリス姉様が戻るまで 生きていてね――」  女が出て行き、だだっ広い部屋の中央にケースが1つ、ぽつりと残された。ケースの中の脳が、 かたかたと震えていた。  サルビア、サルビア、サルビア、サルビア――  私は、間違っていたのかもしれない。  おかしい。おかしいぞ――  粒の小さな雪が舞う、ユーチャリスの町。路上で芸を披露している青年がいた。  青年は、細長い風船を犬の形にしながら、目だけはキョロキョロと落ち着き無く動かしていた。  本職の芸人ではない故、青年の芸はレパートリーが少なく、マンネリ化が激しかった。 しかし、そんな青年のパフォーマンスを毎日見に来る変わった客がいた。その、オレアという 車椅子の少年の姿が、今日はどこにも見当たらなかったのである。  青年は、大きな目的のために、決して自分に向いているとは思えない風船パフォーマンスを演じ、 僅かずつとはいえ金を稼いでいたが、オレアが見に来るようになってからは、それも少しずつ 変わってきていた。  青年は、オレアに見せるためだけに、毎日決まった時間に、同じ場所で同じ事を続けている。 当初の目的は、いつしか忘れ去られていた。  結局、この日オレアは姿を見せなかった。青年は、心がきゅっと引き絞られる思いだった。 オレアの足はただの飾りだと、青年は知っていた。もう二度と立てない、そんな病に罹ったと、 青年はオレア自身から聞いていた。ほとんど運動が出来ないという事は、きっと免疫力が 落ちている。病気に罹りやすい体質だとも聞いていた。何か、外に出て来られないほどの病に 罹ってしまったんじゃないか――青年は、足早に、オレアの入院している病院へ向かって行った。 「ローダンさーん!」  どこからか、声が聞こえてきた。青年は名を呼ばれ、周囲をキョロキョロと見回した。しかし、 どこにもいない。青年はもう一度同じことを繰り返した。聞きなれた、オレアの高い声だった。 「上だよ、上ー!」  ローダンは、上を見上げた。屋根の上にオレアと、知らない女がいた。  その女を見た瞬間、ローダンは、激しい嫉妬にも似た複雑な感情がマグマの如く噴き上がって 来るのを感じた。  オレアは、元気そうだ。表情を見れば分かる。輝いている。俺の芸を見ている時よりも、遥かに ―― 「このお姉さんがね、ここにビュンって連れて来てくれたんだ! 凄いんだよー、釣竿使って ここまで一気に上がってきたんだ!」 「そうか」  その女の方が、いいのか。その女の方が、俺より面白いか―― 「そうそう! お姉さん、あの人が空に浮かぶ乗り物を作っている人なんだ」 「そうなの」  女は、立ち上がって、ローダンを見おろした。 「私はアイゼン=リリー。あなたは、あの山を越えられる?」  アイゼン=リリーの指差した先には、ネモフィラ山脈がそびえ立っていた。ローダンは、 思考を巡らすこともせず、 「当たり前だ!!」  そう、親指を胸に突き立てながら、堂々と言った。 U  ローダンの自宅は、町の端にあった。中は狭く、そして一間だった。家というよりも、 倉庫といった方がしっくり来るだろう。その狭い中には厚手の布が広げられ、人間の生活する だけのスペースが残されているかは疑問だ。  時刻は正午を回ったが、町に響く鐘の音も無視して、ローダンは作業に熱中していた。彼は 朝飯も取っておらず、朝起きてからずっと“空に浮かぶ乗り物”作りに精を出していた。布の 寸法を測り、そして他の布と繋ぎ合わせる。それを繰り返して、1つの巨大な布を作り上げる。 大きさが整ったら、布の端と端をきちんと合わせて、また縫い合わせる。今度は念入りに、 この上なく頑丈になるように縫うのである。そうすると、丸い袋となるようになっている。 慎重に寸法を測っていたのは、綺麗な丸型の袋を作り出すためだったのだ。そして仕上げに、 口の穴の部分が小さくなるように縫った。  これが風船であり、ローダンを空へと連れて行ってくれる物であった。 「ふう」  ようやく1つの袋が出来上がって、ローダンは座ったまま一つ息をついた。しかし、本当に 大きな袋である。空気は入っておらずペシャンコで、部屋に収まり切っておらず、端の方が壁に当 たって皺になっていた。それを見て、ローダンは重い腰を上げ、袋を丁寧に四つ折りにした。これ もかなり力の要る作業だった。布は厚手なだけあって、重量もそう馬鹿に出来たものではなかった。 腰をとんとんと叩く。  やっと一息つけるようになったローダンは、あの女の言葉を思い出していた。 “あなたは、あの山を越えられる?”――  誰しもが、一度は空を飛ぶ鳥に羨望の眼差しを向けたことがあるように、ローダンもまた そんな少年時代を過ごして来た男だった。この町の空は青く澄み渡っていて、人は皆1日に 何度も空を見上げる。 “山の神なんていない。だって、空を飛ぶ鳥は簡単にあのネモフィラを越えて行くじゃないか”  そう、かつてのローダン少年は、幼いながらも、彼にとっては明確な根拠を持って、山の神 崇拝を否定していた。その時から、彼の中に前人未到のネモフィラ山脈を越えるというおぼろげな 目標が生まれた。越えるといっても、四本の手足を使ってちまちまと登って、ではない。あの空を 舞う鳥のように、穏やかに、緩やかに、恐ろしい山の神が棲むといわれる大山脈を気持よく大笑い しながら越えて行きたい――ローダンは、大人になった今でも、その目標を達成するために生きて いた。  しかし、今現在彼を突き動かしているものの正体は、それだけではない。それは嫉妬であり、 怒りであった。  彼は、オレアが彼のショーを見に来るようになってからずっと、オレアのためだけに生きてきた。 そう言い切っても過言ではないくらい、ローダンはオレアに情を移していた。それはオレアが 光り輝くような、どこか人を引き付けるような顔立ちであったこと、病弱であったこと、そして、 自分の面白くも無いパフォーマンスを心から楽しそうに観てくれていたことなど、様々な要因が 重ね合わさってのことだったが、とにかくローダンにとって、もしかしたら空を飛ぶという目標 以上に、オレアの存在が彼の心を大きく占めるようになっていた。  そんな時、オレアの元に、彼が自分以上に心からの笑顔を向ける女が現れた。 「…アイゼン=リリー……」  美しい女だった。硬質そうな、珍しい黒っぽい白の髪の毛。すらりとした体型、そしてそれに フィットしたこれまた黒いドレス。夕陽に輝く、胸元のネックレス。そして何より、高級人形の ような整った顔。  オレアとて、十を少し過ぎた少年とはいえ、男だ。あんな美しい女を目にしたら、心が奪われて しまうのも理解できる。そして、そんな女に優しくされたら……俺だって、骨抜きにされてしまう かもしれない。  ローダンは、鬼の形相だった。  あの女は、俺から大事なものを奪って行こうとしている。  こういう時こそ、“かんがえかた”が必要だ。  夢を追って生きてきたローダンは、“どう生きて行くか”という、人生に於ける最も重大な事柄 を、事あるごとに考え続けてここまで来ていた。彼は、20代後半にして、その途方も無い問題に 対して、2つの答えを見出していた。 “欲しいものを手に入れるには、自ら行動を起こさなければならない” “欲しいものが同時に複数あるのなら、全て取りに行く。それが唯一、本当に幸せになるための方 法だ”  ローダンは、自らの人生論に拠ることに、些かの迷いも持たなかった。  同じ頃、アイゼン=リリーはオークション会場にいた。  町を歩いていただけだったのだが、半ば無理矢理招かれたのである。中を見ると、リリーと似た 服装の女が多くいた。誰かと間違われたのかもしれないわねとリリーは思うことにした。  室内は明かりが点いておらず薄暗かった。もっとも、リリーは夜目がきくのでさして関係は なかったが。  暫くして、明かりが点いた。司会者らしきシルクハットとスーツの男が現れ、大声で挨拶をした。 そしてすぐにオークションが始まった。リリーは金を持っていないのでただ見ている事しか出来な かった。 「では次、いよいよです、38番! 今日の目玉商品です――“山の神の子供の牙”!!」  その時、会場全体が色めきたった。瞬く間に、先程までとは一桁二桁違う額が飛び出していく。 そのどこか気違い染みた熱気に、リリーは内心怪訝とした。始まる前までは我関せずと微笑んで いたある婦人も急に立ち上がり、とてつもない金額を声高に叫んでいた。また別の婦人は、財力の 及ばない所にかけ金が届いてしまい地団駄を踏んで悔しがっていた。恐らく妻の使いで来た のだろう、朴訥そうな男性は周りの勢いに怯え、声も出せずにいた。  ――あれは、きっと私が取って来た牙。  アイゼン=リリーは、遣る瀬無い気持になって、外に出た。 『山の神への冒涜許すまじ』 『祟りが怖くないのか』 『人間は神の所有物である! その人間が神の所有物を所持するなど正気ではない!』 『金吐きども、恥を知れ!』  外では、穏やかではない言葉が刻み込まれた幕を掲げた団体が、決して少なくない人数を揃えて オークション会場を睨み付けていた。客が出てきた途端行動を起こす腹積もりなのだろう。  この町には、2つの神が存在する――リリーは、ここに至るより前、町に入った瞬間から、肌に 張り付くような違和感を覚えていた。  この町は、2つにも、4つにも分断されている……リリーは、団体を一瞥した後、歩き出した。 行き先は、決めていなかった。あまり、気分も良くなかった。老人が出て行きたくなった気持も、 あのローダンという男性が空を飛ぼうとする気持も、今のリリーにはよく理解出来たのだ。  この町は、人の心を沈みこませる。 V 「いてっ」  山沿いの道を行く商人の一団。その中の1人が、何も無いところで躓いた。転んだ男は、 不思議そうに、何も無いはずの空間を凝視した。 「おいおい、どうしたぁ。疲れたか?」  同行者の笑いの混じった声。 「いや、そんなんじゃ……」  どれだけ見ても、そこには何もなかった。おかしい。俺は確かに、何かに足を引っ掛けて、 躓いたはず―― 「ユーチャリスまでもう少しだからさ、頑張ろうぜ」 「…ああ」  ユーチャリス付近の山近くでは、不思議なことに雪がほとんど降らなかった。男は、説明 するのも馬鹿らしいと思い、立ち上がり上半身についた土を払った。男は、最後にその何もない 空間に手を伸ばしてみたが、手に触れる感触はなかった。男は、腑に落ちない様子で軽く首を 傾げた。 「……」 「いつもながら、山の神はお優しいな。自分の子供でもないのに、気を回して下さる」  …ああ、と男も同行者に合わせた。人間のほとんど住まないここより南では雪が降り放題だが、 人間の増えてくるユーチャリス付近では急激に雪が少なくなる。また、商人など、町にない品を 収集するため、度々町を出ることになる人間が多く通る山近くの道にいたっては、全くといって いいほど降らない このことから、商人には山の神信仰の人間が多かった。  男は浮かない顔で、今回の戦果の入った袋を見た。中には、山の神の子供の肉が入っていた。 「…商人っつうか」  男は、ぽつりと言った。虚しく笑いながら。 「ハンターだよな、これじゃあ」 「いいじゃねぇか。戦う商人さんだよ、俺たちゃあ」  彼らが、どのようにして、山の神信仰と相反する行動を正当化しているのかは、定かではない。  空間は那由多にある。  膨大に在るその中の1つ。先程とはほんの少し変わっていた。  何もない空間に存在する“何か”。  “何か”は、静かに一歩、山側に下がり、空間を探る男の手をかわしていた。  それは、“存在を隠す布”をその身に纏った、巨大な土人形だった。  その事実を知る機会が、男からは永遠に失われた。 「…私に?」  アイゼン=リリーはカフェにいた。芳しい茶の香りがリリーの中に入り込んできた。リリーの 目は、対面する男の目を見ていた。  男は、さり気なく目を逸らし、リリーに切り込んでいった。 「そうだ。リリー、君に手伝って欲しいことがある」  男――ローダンは、町を歩くリリーの肩を叩き、カフェへと誘ったのだった。 「俺は毎日、ちょっとしたショーを演っている。目標を達成するためにな。それはオレアから 聞いたか?」 「ええ」 「なら、話は早い。手伝って欲しいんだ」  リリーは、少し戸惑った。オレアから聞いた話を総合すると、ショーというのは、大勢の観衆の 前で道化を演じたり、特技を見せたりして楽しませるものなのだろう。そんなこと、私に出来る だろうか……と。  リリーの不安を感じ取ってか、ローダンは明るい口調で、軽い笑顔を作ってこう言った。 「なあに、大丈夫。難しいことはない。ただ、自分だけの、人には出来ないと思うことを披露 すればいいんだよ。それだけだ。そうすれば、金が貰える。君は美人だからな、客も増える」  金、という単語にリリーは反応した。薄々感じ取ってきていた、この世界における重要な存在。 今のところは、金がなくて困るという経験はなかったが、いずれ必要になることもあるかも しれない。少なくとも、持っていて困るものではないと思った。 「お金……」 「そう、金だ。手伝ってくれたら、分け前をやる。俺が8割、君が2割だ。どう?」  傍目から見れば、かなり不平等な話である。しかしそれも分からないリリーは、少し悩んでから、 「いいわ」  と言った。ニヤリと笑顔を作ったローダンは、 「決まりだな。じゃあ、これを飲んだら、早速練習だ。おっと、これは俺の奢りだから、 安心してくれ」 「ありがとう。でも、私はこの香りだけ美味しく頂いたわ」  そう言って、リリーは口もつけていない自分の茶を、ローダンに差し出した。ローダンは不思議 な顔をしながらも、それを受け取った。あっという間に飲み干し、会計を済ませようとローダンは 立ち上がった。それを一瞥してから、リリーは店の外に出た。  よし。ローダンは、心の中でガッツポーズを作った。そして、心に描いたリリーを、冷たい 感情で窒息させた。  彼は、リリーを“倒すべき敵”と見定めていた。 【アイゼン=リリーとそびえ立つネモフィラ山脈/了】