V  アイゼン=アイリスの視野は、極端に狭まっている。  アイゼン=アイリスには、アイゼン=リリーしか見えていない。対して、アイゼン=リリーは上 方だけでなく下方まで見通せている。  この差は、心の拠り所があるなしの差なのか。  それとも――二人の生き物としての差なのか。  ともかく、事実として、これだけは言える。  下方より迫る存在が、アイゼン=リリーには見え、アイゼン=アイリスには見えなかった。  山の神。  麓の人々の多くが、当たり前のように信仰している。しかし、"空に浮かぶ乗り物"に乗っている 男――ローダンは違った。  だが、今。そのローダンが、山の神の存在を肌身に感じている。 「…これが、ネモフィラなんだな」  山肌を撫ぜる風は、ローダンを浮き上がらせる。幼き頃からの夢、目標を、現実のものとしてく れている。その力は紛れもなく、彼の眼前にそびえる大ネモフィラから生み出されていた。 「そうか……この大いなる自然の力……これこそが、神か――」  本来の神とは、慈悲なるものであるはずだ。そしてネモフィラは、これまで神の存在を否定して きたローダンを無償で助けている。晴れやかな顔で、彼は言う。 「なるほど、神だな!」  そして、その慈悲の精神は今、ローダンに宿った。 「アイゼン=リリー……お前が芸で稼いでくれた金で、これは完成した。それなのに、俺はまだお 前に恩返しできていない。少し遅くなったが、今返すぞ」  一瞬、ヤツの注意をこちらに向ければ良いのだろう? お前には、そのとてつもない釣竿がある のだから――ローダンは、投げた。それは、掌に収まるほどの石だったが、アイゼン=アイリスの 注意を逸らすのには十分すぎるほどだった。 「…人間? なぜ、こんなところに?」  アイゼン=アイリスは、アイゼン=リリーから釣糸を解いた。解いてしまった。そして解いた釣 糸を、そのままさらに下方のローダンに向けて放とうとした。  しかし、アイゼン=アイリスの腕は動かなかった。アイゼン=リリーの"ル・レーブ"が、一瞬速 く腕を絡め取ったのである。 「リリー……ッ!」 「さよなら」  アイゼン=リリーは、両腕を躊躇なく振るった。アイゼン=アイリスはゴーレムの肩から落ちて 行った。瞬きする間もなく、ローダンより遥か下に落ちて行き、何度も山肌に擦られる。ゴーレム はアイゼン=アイリスを追いかけて行った。  アイゼン=リリーは目線を暫く下へ向け、そして正面に戻した。ローダンと向かい合う。 「…これで、少しは借りを返せたか?」 「借りなんて、最初からなかったわ。だって、飲み物を奢ってくれたじゃない?」 「そんなんで……つうか、そのデカいの――なんなんだ?」  ローダンは、今、初めてゴレムをはっきりと見ている。先ほどまでは、見るどころではなかった。 その意味では、ローダンも"視野が狭まっていた"のかもしれない。 「大きいでしょう? うふふ、これが私の弟なのよ」  ローダンには、もちろん意味が分からない。しかし、アイゼン=リリーが言うのならそうなんだ ろう、と納得することにした。 「そうか、弟ねぇー。そうか。うーん。しかし、アレだな。寒いな……着込んできたけど、寒い な!」 「大丈夫なの? 病気になったら嫌よ」  アイゼン=リリーは、雪原にて寒さで熱を出したコルチのことを思い出していた。 「いや、心配するな……俺は今、とても気分がいいんだ。晴れやかだ……ネモフィラの山頂付近で 見る、この空のようにな――」  確かに、ローダンの表情は明るさに満ちていた。ユーチャリスの町で暗く澱んでいた者と同一人 物とは思えないくらいに、生気に満ちていた。彼は幼い頃からの目標を達成した。今、浸っている のだ。だが―― 「――ローダン、逃げて!」 「え――」 「下から、来る……!」  ――何が?  ローダンは、自らの問いにすぐさま答えを出した。  ――決まっている。あの、アイゼン=リリーに似た女と、デカブツ――!  気付いた時には、遅かった。  風を押し退けて、アイゼン=アイリスとゴーレムは急上昇してくる。 「人間如きが、よくもこのアイゼン=アイリスに……ッ!!」  ゴーレムの伸びた手が、"空に浮かぶ乗り物"に迫り来る。  ローダンが、跳ね飛ばされる。  この高さから落ちれば――命はない。  死ぬ――  ローダンが、殺される! 「やめてッ!!」  そう、アイゼン=リリーが叫んだ瞬間――ゴレムは、岩肌から両手足を離した。  落ち――ない。ゴレムは落ちない。浮かんでいる。そしてその体は、金色に輝いている。  浮かぶだけではない、飛んだ。飛んで、ゴーレムに突撃した。間一髪、ローダンは救われた。 「チィッ……目覚めたか。運のいい人間めが……」 「…え?」  アイゼン=アイリスが、"目覚めた"と言った。 「…ふふ。貴女は本当に、何も知りませんのね。本来ならば、そのゴーレムは山など登る必要はな かったの。自分と同じ存在を見て、強烈な刺激を受けたのでしょうよ。そして、"思い出した"のね ――憎々しい、ゴーレム」  …ゴレムも、忘れている?  私と、同じように―― 「…とはいえ、まだ飛行に慣れないわね。フラフラしている。その出来損ないゴーレムじゃあ、ク レソン王国の捕縛からは逃れられないでしょうね! あははは!!」  クレソン王国――アイゼン=リリーは、ハッとして背後を見た。  二人はすでに、ネモフィラ山脈の頂を越えていた。それは即ち、ユーチャリスの領域を越えたと いうこと。  アイゼン=リリーは、知らなかった。クレソン王国とは、現在のこの世界の覇者。随一の科学技 術を誇る、軍事国家であることを。 「…私はここまで。あとは彼らと――"サルビア"に任せることにしますわ」  そう言って、アイゼン=アイリスとゴーレムは去り、空にはアイゼン=リリーとゴレムが残され た。  アイゼン=リリーには、アイゼン=アイリスが何故逃げるように去って行ったのか分からず、そ の場に止まっていた。  それが仇となった。  山の向こう側から、幾重にも編みこまれた、鉄のロープが四本、放たれた。鉄のロープはゴレム の両手足を縛し、完全にその自由を奪った。そして、圧倒的な力――機械的なエネルギー――で、 ゴレムを引き付け、山肌に張り付けた。ゴレムは、ピクリとも動けなかった。  振り落とされたアイゼン=リリーは、気絶しているところをクレソン王国の兵士達に回収された。 【アイゼン=リリーとアイゼン=アイリス/了】