【アイゼン=リリーとアイゼン=アイリス】 T  その女は、確かに宙に浮いていた。  驚くべきは、その安定性。しっかりとした台座の上に、深く腰掛けているような――  そう、女は確かに、腰掛けていた。 「…無茶しないで、ゴレム」  女は、虚空を撫ぜた。慈しみを込めた手付きで。 「いくら頑丈なあなたでも、この高さから落ちたらきっと死んでしまう。ゆっくり、ゆっくり…… 少しずつ、登ってゆきましょう。この山を越えた先には――」  女には、確信があった。  ネモフィラ山脈を越えた先には、激動が待っている。  雪原で別れた、占術師コルチが確かに言っていた。 "とても大きく、強い街があって、その先は深い深い海――そして" 「…私と、深い関わりのある人。私を、知っている人……コルチは確かに、言っていたわ。私はコ ルチの全てを信じている。ゴレム、あなたも――」  女は、虚空のある一点に確かな視線を向けて、ゴレムと言った。冬山の極寒の中、指先にじんわ りとした暖かさが伝わってきて、思わず笑った。 「訊くまでもなかったことね。あなたも、コルチのことを愛しているのだもの」  女の視線の先には、他人からは見えないが巨大な土人形があった。先ほど女が"ゴレム"と呼んだ それである。土人形は、麓の人々から畏怖される程の威容を持つ、その険しきネモフィラ山脈を、 自らの手と足のみでよじ登っていた。手と足のみで山腹まで来ていた。  その時、女は気配を感じた。感じられないわけがなかった。  ――悪意。  ――殺意。  憎しみと破壊衝動。  その全てが、自分とゴレムに向けられている。 「…見ぃつけたぁ」  轟く音。  乱れる風。  通り過ぎたるは、空を翔る巨大な土人形と、女。 「思ったより早く見つけられましたわ。空も飛べない貴方達が、下界を芋虫の様に這いずり回って くれていた御蔭かしら」  上空から、女は下方を見た。 「その布、いい加減お取りなさいな。このアイリスの目は、そんな物では誤魔化せないのだから― ―」 「…見えている?」  女は、布を取り去った。 「…ふふ。飛べないなんて、この程度の山をよちよち登ることしか出来ないなんて……なんて、不 出来なゴーレムなのかしら?」 「…あなたなんて、私にとって大した存在じゃないわ」 「…何ですって? よく聴こえなかったわ、もう一度仰いなさいな、アイゼン=リリー!」  コルチは言っていた。 "強い街があって、その先は深い深い海――そして、あなたは、あなたと深い関わりのある人と出 会うことになる"  この山を越えれば、強い街がある。  強い街の先には深い深い海。深い関わりのある人とは、そこで出会う。そうコルチは言った。  つまり―― 「あなたは出番が早過ぎるの」  女は、上空に向かって、はっきりとした声で言い放った。  それを聴いて、アイリスの冷たい三白眼は、その歪みを益々激しくさせた。 「ふうん……私を、端役扱いしてくれるのかしら? 長女であるこの私のことを――アイゼン=ア イリスのことを!!」 「ええ。私はあなたの殺意に屈さない。それは、私の愛する人が保障してくれていることだもの」  女――アイゼン=リリーは絶対の自信を持って、同じ容姿を持つ女と対峙した。 「そして何より――私の愛する弟を馬鹿にした、あなたを許すわけにはいかないの」 U  アイゼン=リリーに一切の不安・惑いの感情はあり得なかった。  今現在目前に在る、本来不安に満たされても決しておかしくはないこの状況――自らと瓜二つの 女性/自らの弟と瓜二つの土人形、それぞれが攻撃の意志を剥き出しにしている――それであって も、アイゼン=リリーとそしてゴレムの姉弟は全く揺らいでいないのだ。  ただ、ひとつ。  アイゼン=リリーの中に芽吹いているのは、攻撃の意志。しかし、それは揺らがぬ青い炎。とて も静かな感情。あくまでも冷静に、アイゼン=リリーは自分の姉であると語る女――アイゼン=ア イリスを見据えていた。  コルチの言葉に、アイゼン=アイリスの登場を示唆するところはなかった。全てはそこに起因し ている。 「…許さない、ですって? 貴女如きが……アイゼン=リリー、貴女如きが、この私に……アイゼ ン=アイリスに対して、許さないと言うの? その言葉は一体どこから飛び出しているのかしら ね!?」  アイゼン=アイリスは、目に見えて苛ついていた。本人曰くの「妹」が歯向かってくるに終わら ず、侮辱さえ加えてきたことにもはや感情の抑えが利かなくなっているのだ。 「あなた――煩い。黙っていられないの? 大体、あなたに怒る権利などないわ。自分の弟を馬鹿 にされたら、あなたは許せるの? してはならないことをしたのは、あなた。私はそれに抗うだけ ……そう、それだけなの。それに、私達は、この山を越えることに"なっている"。あなたの存在に 関係なくね」  アイゼン=リリーの言葉の終わるより先に、アイゼン=アイリスは手を振るった。その手に握ら れていたのは、釣竿だった。それはアイゼン=リリーの持つ"ル・レーブ"とも瓜二つであった。  釣糸は、アイゼン=リリーの手首に鋭く巻きついた。 「貴女の主張なんて知らない! 私が憤っているのは――貴女如きがこのアイゼン=アイリスの存 在を軽く見た、そのことただ一点……だけど……うふふ、そうね、視点を変えれば、貴女の仕出か したことは、私にとって有益だったのかもしれませんわね? だって……躊躇いなく……!!」  アイゼン=アイリスは、ぐいと釣竿を引いて、アイゼン=リリーの手首を激しく締め付けた。 「…この糸はね、磨きに磨きに磨きに磨いて……切断力を極限にまで高めていますの。貴女如きの 手首なんて、もう、すぐに離れてしまいますわね――ふふ、アイゼン=リリー? 想像してごらん なさいな。貴女の手首から先が、貴女が弟と宣うその大きさだけが取り得の木偶にぼとりと落ちる、 そのユカイな光景を……いえ、想像するまでもありませんわね。何せ、もう、すぐのことなのだか ら――何、その眼は?」  アイゼン=アイリスの表情に滲んだのは、戸惑いにも似た感情だった。彼女は、ここに到るまで 何人かの人間を同じような手法で追い込んでいたが、皆最後は泣きながら許しを乞うてきた。しか し、アイゼン=リリーは違った。  その眼には、先ほどと全く変わりのない確信があった。 「…なぜ? 貴女の手首は、もうすぐにでも切断されてしまうのよ? 私が、もう少しだけ力を込 めれば、いとも容易く……それなのに、なぜ? なぜ貴女は、そんな風にしていられるのよ!?」 「だから、何度も言っているでしょう? 今現在、あなたが私に対してできることなんて――」  アイゼン=アイリスは、気付けなかった。  下方から、得体の知れない存在が近づいてきていることに。 「――何一つ、ありはしないのだから」 V  アイゼン=アイリスの視野は、極端に狭まっている。  アイゼン=アイリスには、アイゼン=リリーしか見えていない。対して、アイゼン=リリーは上 方だけでなく下方まで見通せている。  この差は、心の拠り所があるなしの差なのか。  それとも――二人の生き物としての差なのか。  ともかく、事実として、これだけは言える。  下方より迫る存在が、アイゼン=リリーには見え、アイゼン=アイリスには見えなかった。  山の神。  麓の人々の多くが、当たり前のように信仰している。しかし、"空に浮かぶ乗り物"に乗っている 男――ローダンは違った。  だが、今。そのローダンが、山の神の存在を肌身に感じている。 「…これが、ネモフィラなんだな」  山肌を撫ぜる風は、ローダンを浮き上がらせる。幼き頃からの夢、目標を、現実のものとしてく れている。その力は紛れもなく、彼の眼前にそびえる大ネモフィラから生み出されていた。 「そうか……この大いなる自然の力……これこそが、神か――」  本来の神とは、慈悲なるものであるはずだ。そしてネモフィラは、これまで神の存在を否定して きたローダンを無償で助けている。晴れやかな顔で、彼は言う。 「なるほど、神だな!」  そして、その慈悲の精神は今、ローダンに宿った。 「アイゼン=リリー……お前が芸で稼いでくれた金で、これは完成した。それなのに、俺はまだお 前に恩返しできていない。少し遅くなったが、今返すぞ」  一瞬、ヤツの注意をこちらに向ければ良いのだろう? お前には、そのとてつもない釣竿がある のだから――ローダンは、投げた。それは、掌に収まるほどの石だったが、アイゼン=アイリスの 注意を逸らすのには十分すぎるほどだった。 「…人間? なぜ、こんなところに?」  アイゼン=アイリスは、アイゼン=リリーから釣糸を解いた。解いてしまった。そして解いた釣 糸を、そのままさらに下方のローダンに向けて放とうとした。  しかし、アイゼン=アイリスの腕は動かなかった。アイゼン=リリーの"ル・レーブ"が、一瞬速 く腕を絡め取ったのである。 「リリー……ッ!」 「さよなら」  アイゼン=リリーは、両腕を躊躇なく振るった。アイゼン=アイリスはゴーレムの肩から落ちて 行った。瞬きする間もなく、ローダンより遥か下に落ちて行き、何度も山肌に擦られる。ゴーレム はアイゼン=アイリスを追いかけて行った。  アイゼン=リリーは目線を暫く下へ向け、そして正面に戻した。ローダンと向かい合う。 「…これで、少しは借りを返せたか?」 「借りなんて、最初からなかったわ。だって、飲み物を奢ってくれたじゃない?」 「そんなんで……つうか、そのデカいの――なんなんだ?」  ローダンは、今、初めてゴレムをはっきりと見ている。先ほどまでは、見るどころではなかった。 その意味では、ローダンも"視野が狭まっていた"のかもしれない。 「大きいでしょう? うふふ、これが私の弟なのよ」  ローダンには、もちろん意味が分からない。しかし、アイゼン=リリーが言うのならそうなんだ ろう、と納得することにした。 「そうか、弟ねぇー。そうか。うーん。しかし、アレだな。寒いな……着込んできたけど、寒い な!」 「大丈夫なの? 病気になったら嫌よ」  アイゼン=リリーは、雪原にて寒さで熱を出したコルチのことを思い出していた。 「いや、心配するな……俺は今、とても気分がいいんだ。晴れやかだ……ネモフィラの山頂付近で 見る、この空のようにな――」  確かに、ローダンの表情は明るさに満ちていた。ユーチャリスの町で暗く澱んでいた者と同一人 物とは思えないくらいに、生気に満ちていた。彼は幼い頃からの目標を達成した。今、浸っている のだ。だが―― 「――ローダン、逃げて!」 「え――」 「下から、来る……!」  ――何が?  ローダンは、自らの問いにすぐさま答えを出した。  ――決まっている。あの、アイゼン=リリーに似た女と、デカブツ――!  気付いた時には、遅かった。  風を押し退けて、アイゼン=アイリスとゴーレムは急上昇してくる。 「人間如きが、よくもこのアイゼン=アイリスに……ッ!!」  ゴーレムの伸びた手が、"空に浮かぶ乗り物"に迫り来る。  ローダンが、跳ね飛ばされる。  この高さから落ちれば――命はない。  死ぬ――  ローダンが、殺される! 「やめてッ!!」  そう、アイゼン=リリーが叫んだ瞬間――ゴレムは、岩肌から両手足を離した。  落ち――ない。ゴレムは落ちない。浮かんでいる。そしてその体は、金色に輝いている。  浮かぶだけではない、飛んだ。飛んで、ゴーレムに突撃した。間一髪、ローダンは救われた。 「チィッ……目覚めたか。運のいい人間めが……」 「…え?」  アイゼン=アイリスが、"目覚めた"と言った。 「…ふふ。貴女は本当に、何も知りませんのね。本来ならば、そのゴーレムは山など登る必要はな かったの。自分と同じ存在を見て、強烈な刺激を受けたのでしょうよ。そして、"思い出した"のね ――憎々しい、ゴーレム」  …ゴレムも、忘れている?  私と、同じように―― 「…とはいえ、まだ飛行に慣れないわね。フラフラしている。その出来損ないゴーレムじゃあ、ク レソン王国の捕縛からは逃れられないでしょうね! あははは!!」  クレソン王国――アイゼン=リリーは、ハッとして背後を見た。  二人はすでに、ネモフィラ山脈の頂を越えていた。それは即ち、ユーチャリスの領域を越えたと いうこと。  アイゼン=リリーは、知らなかった。クレソン王国とは、現在のこの世界の覇者。随一の科学技 術を誇る、軍事国家であることを。 「…私はここまで。あとは彼らと――"サルビア"に任せることにしますわ」  そう言って、アイゼン=アイリスとゴーレムは去り、空にはアイゼン=リリーとゴレムが残され た。  アイゼン=リリーには、アイゼン=アイリスが何故逃げるように去って行ったのか分からず、そ の場に止まっていた。  それが仇となった。  山の向こう側から、幾重にも編みこまれた、鉄のロープが四本、放たれた。鉄のロープはゴレム の両手足を縛し、完全にその自由を奪った。そして、圧倒的な力――機械的なエネルギー――で、 ゴレムを引き付け、山肌に張り付けた。ゴレムは、ピクリとも動けなかった。  振り落とされたアイゼン=リリーは、気絶しているところをクレソン王国の兵士達に回収された。 【アイゼン=リリーとアイゼン=アイリス/了】