V  潜水艦の中、独り。  音もない空間。  初めての、圧迫感。 「…静か」  何も聞こえない。  外も見えない。  アイゼン=リリーは、ふと目を閉じる。 「…せり上がってくる……?」  静かなる世界。その中で自分の心だけがざわざわと煩かった。  これは、なんだろう――疑問に思った瞬間"眠り"が、押し寄せてくる。  形を成していないが、それは確かに"手"だと解った。  アイゼン=リリーを、その心の深淵に引き込もうとする――"手"。  逃れる手段は何一つなく、アイゼン=リリーは"眠り"に引き摺り込まれた。  そこもまた、静寂が支配する空間だった。  アイゼン=リリーは、周囲を見渡す。真っ白な世界。  誰もいない。何も存在しない。  在るのは唯、アイゼン=リリーのみ。  ここはどこ? アイゼン=リリーは、戸惑う。  ――しかし、声は聴こえた。外からではなく、頭に直接響いてくる、声。  リリー……アイゼン=リリー……  あなたは誰、そうアイゼン=リリーは思う。声は再び問いかけてくる。  リリー……私よ、リリー……忘れた?  ――初めて聴く声。それなのに、段々と声の主が形作られてくる。  やがて、アイゼン=リリーのみの空間ではなくなった。  声の主は、可憐な少女であった。 「忘れてしまった? 無理もないか……とてもとても、久しぶりだもの」 「誰なの? 私は、あなたを知らない……懐かしい感じは、するけれど」 「私は、あなた。瞳を見て。何が映っている?」  アイゼン=リリーは言われたとおり、目の前の少女の瞳を見た。そこに映っていたのは、少女と 全く同じ姿に変わっていた自分だった。  同じ空間に、同じ姿の者が、二人いる。アイゼン=リリーにとって、理解不能の事態だった。 「――ここでは、どちらがどちらか解り難いわね。個性がなくて、つまらない。もっと、奥深くま で行きましょう。"コスモス"の――」  沈み込んでいくのが解った。今度は、不思議と違和感がない。体が思い出してきていた。  アイゼン=リリーは、間違いなく、この空間に身を置いたことがあったのだ。 「"コスモス"って、解る――解ってなさそうね。本当に、全て忘れてしまったの? …"コスモス" は、私とあなただけの"宇宙"なの。」 「"宇宙"……それが、この空間の名前? 私があなたを見つめ、あなたが私を見つめる……そのこ としかできない、この空間の名前が……」 「…あなたは、いいわよね。私は、あれ以来ずっと、この"コスモス"の中にしかいられないのに… …あなたは、たとえ記憶を失くしているとしても、変化に満ちた外の世界を見て、聞いて、歩いて いるのだもの。それって、凄く幸せじゃない――着いたわ」  もう、沈んでいかない。どうやらここが"コスモス"の最深部だ。  あ――少女の瞳に映る自分が、よく知る自分になっていた。黒いドレス、灰色の髪。  ――アイゼン=リリー。  目の前の少女とアイゼン=リリーが、今、真の別人になった。 「"コスモス"は奥に行けば行くほど、魂が先鋭化される――つまり、自身が独立化するの。区別さ れて、ここでのみ、私とあなたは別のものになる……私は、ストケシア。あなたは?」  ストケシアに促され、アイゼン=リリーは応えた。 「私は……アイゼン=リリー。あなたは――ストケシアは――私の、魂?」 「…少し、思い出した? そう、アイゼン=リリー。私は、あなた。あなたは、私。私達は、別の 存在だけれど、同じ存在でもあるのよ。それは――」  言いかけたところで、ストケシアは言葉を止めた。 「…それは、この先で私達を待っている"あの人たち"から知ったほうが、いいかもしれない……」  それは、潜水艦の静寂の中で、アイゼン=リリーも感じていた。  海の底に居る存在が、明確な意志を持って自分を待っている、ということを。 「…アイゼン=リリー。気を抜かないでね。"あの人たち"は、ルピナ……いえ、ゴレムはともかく、 あなたのことは、本気で亡き者にしようとしてくるわ。私のことも、あなたのことも、とても嫌っ ているから。"あの人たち"が欲しがっているのは、ゴレムだけ……また、あの悲劇を繰り返すため に――」  悲劇と聞き、アイゼン=リリーが思い浮かべたのは、"ジャイアント=ステップ"という言葉。  ゴレムが、ジャイアント=ステップの、カギ―― 「そろそろ、現実世界は海の底ね。じゃあ、ね。また、逢いましょう」 「待って、ストケシア! ひとつだけ――私は、私達は……かつて罪を犯したの?」  ストケシアは、少し俯いて、またアイゼン=リリーの瞳を見据えた。その瞳は、確信に満ちてい た。 「…ええ。世界を"破滅させかけた"四対八体の人形、その中に、確かに私達は含まれている――」  アイゼン=リリーの心に、闇が忍び寄る。  暗く澱んだ、沈みこむような思い。  その正体は、絶望だった。  アイゼン=リリーの姿が消えた"コスモス"は、またストケシアだけの"宇宙"となった。  独りきりのストケシアは、寂しそうに呟いた。 「…でもね、アイゼン=リリー。私達は、それでも、守ろうとしたのよ――愛すべき、世界を」  絶望してはいけない。  絶望している暇はない。  ――ストケシアは、そう言いたかったが、言わなかった。  アイゼン=リリーなら、自分で気付いてくれるはず――ストケシアは信じた。  今度こそ、この世界を守り通さなければならない。  記憶を取り戻したら、アイゼン=リリーはきっとそう思うはず、そう信じた。 「――着いたのね、リリー」  海の底、沈む建物の中。水の及ばぬその場所に、立っていた。  白いドレスに身を包んだ、美しい女が。  その名は――アイゼン=サルビア。  アイゼン=リリーに、激しく憎悪を向けている。 「…待ちわびたわ」 【アイゼン=リリーとコスモス/了】