【アイゼン=リリーとコスモス】 T  窓が開け放たれている。  爽やかな潮風が吹き込んでくる。窓の外は一面海であろう。本当にそうであるか、アイゼン=リ リーには分からない。なぜなら、窓には小指一本程の間隔で鉄の格子が填め込まれているからだ。  部屋自体はそれなりの広さと品のある装飾が成されており、ここが軟禁室だと言われてピンとく る人間は少ないだろう。  アイゼン=リリーは、ベッドに横になっていた。軽く寝返りを打つたびに、ベッドはギシギシ軋 む。  彼女は、ひどく退屈していた。  クレソン王国は、現代の覇者である。他国とは比較にならないほどの圧倒的な科学力、そしてそ れに伴う軍事力を備えていた。  なぜ、クレソン王国が世界の中で突出した存在となり得たか――それは、かつての超大国・グロ リオーサ王国の遺産によるためである。  グロリオーサは、現代より遥かに進んだ技術を得ていた。そしてその技術を世界中に輸出して、 結果国は栄えた。今でも世界の各所で名残を見ることが出来る"遺産"である。しかし、現存数は少 ない。『ジャイアント=ステップ』により地表の半分近くは完全に破壊され、完全な破壊に到らず とも、大きなダメージを受けた所も多かった。破壊されたのは、人、土地に限らず、物も含まれる。  そんな中、クレソン王国に損害はほとんどなかった。巨人達はグロリオーサを破壊してから北へ 進路をとったため、南に位置していたクレソン王国には被害が及ばなかったのである。そしてその まま『ジャイアント=ステップ』は終結した。  そして環境の激変に伴う海流の変化が、クレソン王国にグロリオーサの遺産をもたらした。次々 と流れ着く、当時のクレソン王国の人々の理解を超越した品々――これらを研究し、それによって 得た技術を実践する。途方もない時間、ずっと、ひたすらにそれを繰り返してきた。  こうしてクレソン王国は"ポストグロリオーサ"となったが、一つ違っていたのは、クレソン王国 は他国との交流を一切行わず、実質的な鎖国状態としていることである。他国ならいざ知らず、ク レソン王国には動力がある。海流など物ともせずに突き進むことの出来る船舶がある。  "王国"とある。  クレソン王国は、それこそ『ジャイアント=ステップ』前より王制を維持し続けている、伝統あ る国である。国の基本方針は王の一存により決められ、そこから大きく外れることはない。  一見して穏やかな世界は、小さな奇跡の積み重ねによって出来ている。 「"あれ"の解析は進んでいるか、リュース」 「ええ極めて順調に進んでいますよ」  うす暗く狭い部屋だった。分厚い眼鏡をかけた学者然とした男が、背後からの声に答えながらも 画面からは一度として目を離さずに、一心不乱にボタンを打ち続けていた。部屋の中で唯一光を放 っている画面に、文字が躍る。 「全く素晴らしい研究対象です"あれ"の身体構造はこれまでのデータの何れとも一致せずつまり未 知なものですあの人型は一見して人間の女性のようですが密度がまるで違いますつまり――」 「リュース」 「――は?」 「落ち着け」  リュースはハッとして、一つ咳払いをした。 「結論から言いましょう、"あれ"は使えます。我々も"意思ある人型"の製作を目指していますが、 あれ程の完成度には達していません。"あれ"ならば、潜らせることも可能でしょう。潜水艦も必要 ないかも知れませんね」 「そうか、やはりな。では、遂に念願の――」 「ええ。未だ人間を拒み続けるあの深遠なる地へ、いよいよ辿り着ける。そう確信しております。 "あれ"は呼吸を要さないのです――ええ、もうじきですよ、ラナンキュラス王」  リュースは正面に立っている男――クレソン王・ラナンキュラスの目をまっすぐに捉え、ニヤリ と笑った。自信の笑みだった。 「急げよ、リュース。時間はないぞ」 「はっ」  ラナンキュラスは、部屋を出た。  彼の胸に去来するのは、先祖から受け継がれてきた密文書の中身。王となる者以外決して知るこ とは許されない、遠い遠い、過去の出来事のこと。 『ジャイアント=ステップ』――その正体。 「…居場所は分かっている。あの災厄を――絶対に繰り返させてはならない。奴等を――絶対に出 会わせてはならない」  そう、極めて小声で呟いて、ラナンキュラスは鍵を開け、その部屋に入った。 「アイゼン=リリー」  ベッドに寝転んでいた黒いドレスの美しい女は、声の方に起き上がった。 U  ラナンキュラスの腹は決まっていた。  目の前の女――アイゼン=リリーは、ただの女ではない。まだ確定ではないが、極めて怪しげな 存在。  クレソン王となる者にのみ、一子相伝の形で伝えられてきた"それら"の存在――アイゼン=リ リーこそが、そうなのではないだろうか――  ラナンキュラスの中に、二つの感情が生まれていた。一つは、なぜよりによって自分の代に"そ れら"が目覚めてしまったのかと、自分を不運に思う感情。  そして、もう一つは、自分の代だからこそ"それら"が目覚めたのだ――という、ある意味高慢と も思える、強烈な自意識。しかしそれは自惚れではない。この先に待ち受けているかもしれぬ、世 界の危機。それに対応するがために、クレソン王国は自らを磨いてきたのである。  脅威には、強い心で応じなければならない。自らを奮い立たせなければならない。  そして、その脅威の正体に最も近いところにいるかも知れない女が、今ラナンキュラスの目の前 に座っている。 「すまなかったな」  まず、ラナンキュラスはアイゼン=リリーに詫びた。 「本来ならば客人として手厚く迎えなければならなかったが、場合が場合なので、な」 「…"私は"別に怒ってなんかいないわ。突然裸にされて、眠らされた時は、戸惑ったけれど。そん なことより――ゴレムは、どうしているの?」 「ゴレム? あの土塊のことか」 「…怖い思いなど、させてはいないでしょうね? 暴力を加えたり、傷付けたりなど――していな いでしょうね?」 「怖い思いなど、あんな――」  土塊に――と言い掛けて、やめた。アイゼン=リリーにとって、あの動力不明の造形物は、本当 に大切な存在なのだとラナンキュラスは感じ取った。ここでアイゼン=リリーを無為に怒らせるの は、決して得策とは思えなかった。 「…何もしてはいない。ただ、動けないように拘束してはいるが」  あの時、ゴレムはネモフィラ山脈の山肌に、四肢を拘束されたまま叩きつけられた。今もそのま ま磔にされてしまっている。確かに危害は加えていないが、ゴレムの精神面のストレスは、計り知 れない。 「…そう」  アイゼン=リリーも、それには納得した。今のゴレムは拘束していないと危険極まりない。もし も自由ならば、自分を追ってくるだろう。そしてその過程で傷付く人が大勢出てくるかもしれない。 拘束は正しい対応だと思うしかなかった。  しかし、そもそも――根本的な疑問があった。 「なぜ、私達を捕らえたの?」 「なぜ捕らえられたか、解らないか?」 「質問で返すのはやめて。この国のルールがどうなっているかは知らないけれど、突然こんな形で 捕らえるなんて、理不尽だと思うわ」 「…過去にあれほどの大罪を犯した者たちをノーチェックで入れてやるほど、この国はお人好しで はないということさ」 「大罪?」  アイゼン=リリーは、ぽかんとした顔になった。 「覚えていないのか――本当に」 「なんなの、それは?」 「教えてやることは容易い。しかし、タダで教えてやるのももったいない気がしてな」 「…気前の良くないこと」  条件がある――ラナンキュラスは、アイゼン=リリーの底知れぬ目の奥深くを眺めながら、ゆっ くりと言葉を紡ぎ出した。  ラナンキュラスの出した条件―― 「…この乗り物は?」 「潜水艦、という代物さ。人間を生きたまま海底まで運んでくれる"はず"のものだ」 「…実験台、ということ?」 「平たく言えばな。しかし、それは副次的な要素に過ぎない。海底の調査が本来的な目的であって、 君に頼みたいことだ」  ラナンキュラスの横にいたリュースが、眼鏡をくい、と上げてから口を動かし始めた。 「潜水艦についてはテストは既に済んでいますので、後は実践のみです。潜水服等、必要な物は中 に入っていますのでよろしく」  アイゼン=リリーの中には疑問が渦巻いていた。しかし、今はこれに乗って海の底まで行くしか ないのだろうと思った。  コルチの言うとおりならば、深い海で、出会いがある。  言うとおりに決まっている。ここまで全て、本当だったのだから―― 「問題ありません、映像はきています」  リュースの部屋のモニターに、潜水艦の艦内が映っていた。リュースは、アイゼン=リリーを眠 らせている間に、目頭の付近に超小型の撮影機を仕掛けていた。 「これから"あれ"の目に映る風景は未知なるものなわけです。全く興奮してくるではありません か!」 「…我々にとっては、な――」  アイゼン=リリーにとっては―― V  潜水艦の中、独り。  音もない空間。  初めての、圧迫感。 「…静か」  何も聞こえない。  外も見えない。  アイゼン=リリーは、ふと目を閉じる。 「…せり上がってくる……?」  静かなる世界。その中で自分の心だけがざわざわと煩かった。  これは、なんだろう――疑問に思った瞬間"眠り"が、押し寄せてくる。  形を成していないが、それは確かに"手"だと解った。  アイゼン=リリーを、その心の深淵に引き込もうとする――"手"。  逃れる手段は何一つなく、アイゼン=リリーは"眠り"に引き摺り込まれた。  そこもまた、静寂が支配する空間だった。  アイゼン=リリーは、周囲を見渡す。真っ白な世界。  誰もいない。何も存在しない。  在るのは唯、アイゼン=リリーのみ。  ここはどこ? アイゼン=リリーは、戸惑う。  ――しかし、声は聴こえた。外からではなく、頭に直接響いてくる、声。  リリー……アイゼン=リリー……  あなたは誰、そうアイゼン=リリーは思う。声は再び問いかけてくる。  リリー……私よ、リリー……忘れた?  ――初めて聴く声。それなのに、段々と声の主が形作られてくる。  やがて、アイゼン=リリーのみの空間ではなくなった。  声の主は、可憐な少女であった。 「忘れてしまった? 無理もないか……とてもとても、久しぶりだもの」 「誰なの? 私は、あなたを知らない……懐かしい感じは、するけれど」 「私は、あなた。瞳を見て。何が映っている?」  アイゼン=リリーは言われたとおり、目の前の少女の瞳を見た。そこに映っていたのは、少女と 全く同じ姿に変わっていた自分だった。  同じ空間に、同じ姿の者が、二人いる。アイゼン=リリーにとって、理解不能の事態だった。 「――ここでは、どちらがどちらか解り難いわね。個性がなくて、つまらない。もっと、奥深くま で行きましょう。"コスモス"の――」  沈み込んでいくのが解った。今度は、不思議と違和感がない。体が思い出してきていた。  アイゼン=リリーは、間違いなく、この空間に身を置いたことがあったのだ。 「"コスモス"って、解る――解ってなさそうね。本当に、全て忘れてしまったの? …"コスモス" は、私とあなただけの"宇宙"なの。」 「"宇宙"……それが、この空間の名前? 私があなたを見つめ、あなたが私を見つめる……そのこ としかできない、この空間の名前が……」 「…あなたは、いいわよね。私は、あれ以来ずっと、この"コスモス"の中にしかいられないのに… …あなたは、たとえ記憶を失くしているとしても、変化に満ちた外の世界を見て、聞いて、歩いて いるのだもの。それって、凄く幸せじゃない――着いたわ」  もう、沈んでいかない。どうやらここが"コスモス"の最深部だ。  あ――少女の瞳に映る自分が、よく知る自分になっていた。黒いドレス、灰色の髪。  ――アイゼン=リリー。  目の前の少女とアイゼン=リリーが、今、真の別人になった。 「"コスモス"は奥に行けば行くほど、魂が先鋭化される――つまり、自身が独立化するの。区別さ れて、ここでのみ、私とあなたは別のものになる……私は、ストケシア。あなたは?」  ストケシアに促され、アイゼン=リリーは応えた。 「私は……アイゼン=リリー。あなたは――ストケシアは――私の、魂?」 「…少し、思い出した? そう、アイゼン=リリー。私は、あなた。あなたは、私。私達は、別の 存在だけれど、同じ存在でもあるのよ。それは――」  言いかけたところで、ストケシアは言葉を止めた。 「…それは、この先で私達を待っている"あの人たち"から知ったほうが、いいかもしれない……」  それは、潜水艦の静寂の中で、アイゼン=リリーも感じていた。  海の底に居る存在が、明確な意志を持って自分を待っている、ということを。 「…アイゼン=リリー。気を抜かないでね。"あの人たち"は、ルピナ……いえ、ゴレムはともかく、 あなたのことは、本気で亡き者にしようとしてくるわ。私のことも、あなたのことも、とても嫌っ ているから。"あの人たち"が欲しがっているのは、ゴレムだけ……また、あの悲劇を繰り返すため に――」  悲劇と聞き、アイゼン=リリーが思い浮かべたのは、"ジャイアント=ステップ"という言葉。  ゴレムが、ジャイアント=ステップの、カギ―― 「そろそろ、現実世界は海の底ね。じゃあ、ね。また、逢いましょう」 「待って、ストケシア! ひとつだけ――私は、私達は……かつて罪を犯したの?」  ストケシアは、少し俯いて、またアイゼン=リリーの瞳を見据えた。その瞳は、確信に満ちてい た。 「…ええ。世界を"破滅させかけた"四対八体の人形、その中に、確かに私達は含まれている――」  アイゼン=リリーの心に、闇が忍び寄る。  暗く澱んだ、沈みこむような思い。  その正体は、絶望だった。  アイゼン=リリーの姿が消えた"コスモス"は、またストケシアだけの"宇宙"となった。  独りきりのストケシアは、寂しそうに呟いた。 「…でもね、アイゼン=リリー。私達は、それでも、守ろうとしたのよ――愛すべき、世界を」  絶望してはいけない。  絶望している暇はない。  ――ストケシアは、そう言いたかったが、言わなかった。  アイゼン=リリーなら、自分で気付いてくれるはず――ストケシアは信じた。  今度こそ、この世界を守り通さなければならない。  記憶を取り戻したら、アイゼン=リリーはきっとそう思うはず、そう信じた。 「――着いたのね、リリー」  海の底、沈む建物の中。水の及ばぬその場所に、立っていた。  白いドレスに身を包んだ、美しい女が。  その名は――アイゼン=サルビア。  アイゼン=リリーに、激しく憎悪を向けている。 「…待ちわびたわ」 【アイゼン=リリーとコスモス/了】