V  動かないゴレムは、人間からはただの巨大な置物にしか見えない。  人間には解らない。ゴレムが内に秘めている気持を。  人間には、ゴレムに感情があるなど想像さえ出来なかった。  そして人間達は、過信していた。  己の生み出した、強力な"道具"の力を。  そして人間達は、想像出来なかった。  いつの間にか、彼らは信じきっていた。 「俺達を凌駕する存在などない」と――  それは、獣のようだった。  アイゼン=リリーの姿はそこにあって、しかしなかった。  さしものアイゼン=サルビアも、目の前にあるアイゼン=リリーの変わり果てた様子には、内心 驚きを禁じ得なかった。  アイゼン=リリーは、波に呑まれていた。  "記憶"という、巨大な波に。  容赦などなく。  水を得た魚のように、記憶はアイゼン=リリーの中で踊った。  余りにも膨大で、積もり積もった長きに渡る記憶の山。それらをすぐに咀嚼することなど出来る わけもなく、アイゼン=リリーは地面に膝つき苦しそうに頭を抱えていた。  その眼は錯乱を表し、口からは呻き声が溢れ、涎も止め処なく漏れ出していた。  それは、今すぐにでも理性を失いかねない、まさしく獣のような――  ――しかし。  心まで獣に染まってしまったわけではない。  頭の中を跋扈する記憶、その隙間で小さく、しかし確かに声を上げていた。  アイゼン=リリーが今頼れる唯一で、最大の存在。  ――最愛の弟、ゴレムへのSOS。  "ゴレム、助けて、ゴレム、助けて、ゴレム、苦しい、助けて……ッ!"      分かっていた。こんなことを想っても、来てはくれない。ゴレムは今もネモフィラの山の頂上で、 強力な捕縛道具によって縛り付けられているはずだ。対して、アイゼン=リリーは海底にいる。あ まりにも距離が離れすぎている。  届くわけがない。こんな想いなど―― 「――さ。どう? これでもまだ"在るべき姿に戻るだけ"なんて言えるゥ?」  アイゼン=サルビアが言う。アイゼン=リリーは何も言わない。言えない。 「答える余裕もない――みたいね。でもこんなんじゃあ、先が思いやられるなァ。あんた、解って ンの? 今は渦巻いてるだけの記憶がきっちり繋がったら、あんたもっとキツくなるわよ。だって あんたは――偽善者。そう、偽善者だもの! お優しいリリーちゃんにはイタい記憶でしょう よ!!」  嬉しそうに、アイゼン=サルビアは二度"偽善者"と言った。  しかしそれでも、アイゼン=リリーはまだ前を向こうとはしない。ただただ、下を向いている。 アイゼン=サルビアの位置からその表情は窺い知ることが出来ない。  それが、アイゼン=サルビアの怒りに火を点けた。 「あんたッ、こっち向きなさいよ!!」  背に掛けた釣竿を掴み取ると同時に、アイゼン=サルビアはそれを放とうと後方にビュンとしな らせた。  その瞬間。 「――聴こえる」 「…何が?」 「え……何故……? 声が、こんなに離れているのに――ぴったり、耳をつけなければ、聴こえな かったはずなのに――」 「訳わかんないこと、言ってんじゃないわよ!!」  それは、深化の証なのか。  アイゼン=リリーとゴレムは、まるで鯨のように、離れた所からお互いの声を聴き合っている。  離れた――否。声は、どんどん近くなる。  距離が、確実に、急速に、近づいてきている。 「ああ、ゴレム……あなたの声が、今の私にはとても良く聴こえる――」 『リリー、待ってて――もう少しだ』  アイゼン=リリーは、感動さえ覚えていた。これまで、アイゼン=リリーはゴレムの"声"をある 程度までは"想像して"理解していた。それはゴレムがアイゼン=リリーの普通使っている言語とは 異なるものを用いていたためだ。ゴレムの"声"とは、例えるならば楽器の音色のような、動物の鳴 き声のようなものであり、普通の人間が聴けばまず意味など見出せない代物だ。しかしアイゼン= リリーには何となく理解出来るような類のものだった。  それが今、ゴレムの"声"は、アイゼン=リリーのそれと同じ種類の音として聴こえてきていた。 当然、きちんと理解出来る。想像の入る余地などない、リアルとして。  ああ、ゴレムは、自分のことを"リリー"と呼んでいたのか――アイゼン=リリーは、不思議な感 覚に襲われた。  同時に、ある疑問も生じた。しかし今は、そのことについて考えている暇など微塵もなかった。 「何、これはッ……ゴーレム――!? まさか、あんたのゴーレムが来てるっていうわけ!?」  アイゼン=サルビアも、ゴレムの存在は感じ取っていた。その狼狽ぶりは、普通ではなかった。  ゴレムの声に冷静さを取り戻したアイゼン=リリーは、さらりと言い放った。 「ゴーレムじゃないわ――私の愛する、ゴレムよ」