W  アイゼン=サルビアはうろたえていた。  ゴーレムなど、見慣れたものだ。アイゼン=リリーとは違い、古くの記憶をしっかりと維持し続 けている彼女にとっては。  それなのに――瞳は、踊っていた。ぶれて、ぶれて、落ち着かなかった。今のアイゼン=サルビ アは、まるで想い人をしっかりと視界に捉えられない少女のようだった。  そんな少女状態では、普段は回りすぎるほどに回る頭脳も機能が鈍くなってしまう。何か忘れて いる気がしていた。何か忘れている気がするが、思い出せない。  近づいてくる。まもなく、この建物は破壊されてしまう。破壊されれば、ここに至るまで一度も 侵入を許さなかった海水が、怒涛の勢いで迫ってくる。そして瞬きする間もなく凌辱は完結する。  ――だが、止まった。  水圧などないかのような勢いでここまで進んできたゴレムが、ここで完全に止まった。  二人とも、その理由は解っていた。  ゴレムほどのスピードではないが、同じく近づいてきていた、もう一つの存在があったのだ。  ゴレムの表情は変わらない。そもそもゴレムに表情などない。  だが――ゴレムの感情は、一目瞭然だった。表情など関係ない。眼に映らぬ怒りが、その海中に 確かに在った。  そしてその怒りの矛先は、アイゼン=アイリスとそのゴーレムに向けられていた。  …何を、見ている?  アイゼン=アイリスは、歯軋りした。そして、怒りを怒りで跳ね返そうと、狂気じみた眼差しで ゴレムを睨み付けた。  静寂が戻った室内。  それが一瞬か、長く続くのかは分からないものの、静寂にはアイゼン=サルビアを落ち着かせる だけの効果があった。  そして、やっと彼女は思い出した。  建物――かつて"研究所"と呼ばれたこの場所には、自分を生み出した"父親"がいることを。そし て"父親"には、まだ利用価値があるということ。  そして何より"父親"を目の前のアイゼン=リリーに渡してはならない、ということ。  アイゼン=リリーは、ゴレムに話し掛けていた。 『どうしたの、大丈夫? ゴレム』 『…ちょっと邪魔されているだけ。心配は要らない。それより――』 『…それより?』 『自分のことを心配して、リリー』  ゴレムの声が頭に響いたのと同時に、アイゼン=リリーは右手首に何かが巻き付いたと思った。  それは、アイゼン=サルビアの糸。釣糸だった。  振り解こうと手を上げたが、アイゼン=リリーの腕は止まった。電撃のようなものが手首から上 腕にかけて走り、その後硬直した。 「便利なのよ、これ。ル・レーブが全部一緒だと思ってた? あたしのは、あんたのみたくただ頑 丈なだけがとりえじゃないの! ちょっと知識があれば、改造くらいは簡単に――」 「"あなたの"知識じゃないでしょ」  アイゼン=リリーは、鋭く言った。それが真実だと確信していることを示すために。 「誰か……まだ、頭の整理が間に合っていなくて分からないけれど、少なくともあなただけの知識 ではそんな改造は出来ない。そのくらい、解るわよ。記憶が落ち着くところに落ち着けば、誰が協 力者なのかも分かるのでしょうけどね、サルビア――」 「…随分、枝葉にご執心なことね? 誰が改造したかなんて、そんなのはどうでもいいじゃない」 「枝葉ではない、大事なことよ。だって――その人は、きっと私達を創造した人と同じはずだから。 アイリス、サルビア、私、ドラセナ……皆、その人に創られた。その人がいたから、私は今ここに 在る。どこが枝葉なの? 重要なことじゃない」  アイゼン=サルビアは、舌打ちした。アイゼン=リリーのようなタイプは、大嫌いだった。アイ ゼン=アイリスは使い易く、重宝な存在だったが、アイゼン=リリーはまるで使えそうにないと思 っていたからだ。何故なら"それなりに"聡明で、無駄に正論を吐きたがるからだ。正論より自分の 意志を最優先にしたい、意志を通すためなら、道理など投げ捨てても構わないという考えのアイゼ ン=サルビアとアイゼン=リリーは、まるで水と油である。  アイゼン=サルビアは、アイゼン=リリーを憎んでさえいた。殺せるものなら殺したいとさえ考 えていた。  しかし、今はそれは出来ない。今、アイゼン=リリーを殺すわけにはいかなかった。"父親"の意 志を受け継ぐ存在である、と自任しているアイゼン=サルビアにとって、アイゼン=リリーは最も 重要なピースであった。ゴレムだけでは足りない。"力の執行者"が必要なのだ―― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  細雪降る、ロベリア大陸南部の雪原。雪の勢いは、アイゼン=リリーとゴレムがいた頃に比べて、 幾分弱まっているようである。春が近いのだろう。  雪原に、ぽつんと佇んでいる木造の小屋があった。そこだけ、命の気配がした。  暖炉には真赤な炎が揺れている。少女は、下準備の済んだ鍋を炎に掛けようとしていた。  だが、その手前で鍋を落とした。ごおん、と音がして、鍋の食材が次々こぼれた。 「どうした、コルチ」  老人はロッキンチェアーからゆらりと立ち上がり、占術師コルチに声を掛けた。コルチの唇は震 えていた。その眼は弱々しかった。 「どしたんじゃい、どこか、怪我をしたのか?」 「…おじいちゃん、すぐに馬車を呼べる?」 「馬車じゃと? 馬車……ああ、今日食材届けに来る予定の筈じゃ。しかし、それがどうした?」  老人に問われ、コルチは目を逸らした。  "占術師は視えたものに逆らうことは出来ない"  "唯一絶対の掟"  ――しかし、コルチには抑え難い思いが生じていた。  視えてしまったのだ。絶対に視たくはなかった光景が。本当の姉のように慕う、何よりも大事な、 幸せになって欲しいと心から願っていた存在――アイゼン=リリーの姿が。  そして、その姿は――  …確かな未来を自らの手で作り変えてしまったら、それはもう、神……  …それでも。 「ごめん、おじんちゃん。あたし、それに乗っていく――」