【アイゼン=リリーとアイゼン=サルビア】 T  その建物は堅牢だった。  海に沈んだまま、悠久の時を過ごしてきた。それにも関わらず、海水が浸入してくる気配は微塵 もなかった。  真っ白な広い部屋、そこには白いドレスを着た女しかなかった。  女は、ただ立っていた。しかしその心は、沸き立っていた。  何かを待っているかのように。  ――締め付けられる。  アイゼン=リリーの体は、ギシギシと鳴いていた。  海底で一歩ずつ、確実に歩を進めていく。地上ならば、ものの数分で辿り着ける距離が、今はと てつもなく遠く感じた。  しかし、見えている。アイゼン=リリーはその建物を視界に捉えている。感じている。その中に 何か意志あるモノが潜んでいると。  ――違う。  潜んでなどいない。ここまで、意志を前面に押し出しているモノを、潜んでいるなどとは言わな い――  女――アイゼン=サルビア。  アイゼン=サルビアの意識に混在している"もう一つ"が、声を発した。 「――ええ、そうね、リアトリス。大丈夫。あたしが、あんな無自覚なコに敗れるわけがないじゃ ないの……"あの時"のことは、ううん、もう。思い出させないで! あたしに、屈辱は――」  アイゼン=サルビアの表情に狂気が浮かび上がって、その目線が端の扉に向いた時、口角が歪に つり上がった。  水滴が地面に落ちる音がする。濡れた布の端が擦れる音がする。近づいてくる。 「…やっと、来たァ。リアトリス。消えて――」  扉が開く。  アイゼン=サルビアの意識は、アイゼン=サルビアだけのものとなった。 「…何、その笑顔は」  アイゼン=リリーは、冷めた目をしている。全身ずぶ濡れで、ゆらりとした佇まいだった。 「嬉しいの。妹に久しぶりに逢えて」 「私は、嬉しくも何ともない……だってあなた、私のことを――」 「憎んでいる」  そうアイゼン=リリーを遮って、アイゼン=サルビアはさらに続けた。 「そう言いたいんでしょ? あたしが、あんたを憎んでるって、そう言いたいのよね?」 「……」 「そうだと思う?」 「…そうなんでしょう」 「自惚れてんじゃないわよ」  砕けたガラスの先端のような、鋭い言葉。アイゼン=サルビアの口からは次々とそれが飛び出し た。 「憎むっていう感情はね、自分と同等か格上の相手に対して生じるものなのよ。解る? どうして あたしが妹であって格下のあんたを憎まなければならないのかしらね? そう、あたしはあんたよ り全てにおいて上。頭も、美貌も、強さも……何一つ、負ける要素はないのよね」  アイゼン=リリーは、聞き流していた。アイゼン=サルビアは明らかに挑発している。ここで挑 発に乗っても、仕方がない―― 「…私がここに来たのは、あなたに訊きたいことがあったから。争うためではないわ。教えて欲し いの……あなたには、記憶があるのでしょう?」 「ふん……本当に、思い出したいの?」 「ええ」 「大丈夫かなァ……あんたには、辛いかもしれないわよ?」 「…辛い?」 「だってあんた――"偽善者"だもの」  アイゼン=サルビアは、扉に向かって歩き出した。  アイゼン=リリーとの距離は、どちらかが手を伸ばせばすぐに届いてしまうところまで縮まった。 「それでいいなら――」  アイゼン=サルビアは、アイゼン=リリーの後頭部に両手を回した。 「思い出させてあげる」 U  ラナンキュラスの記憶が、外部より強く刺激を受けていた。  "外部"とは、勿論、リュースのモニターである。  モニターに映るのは、アイゼン=リリーの瞳に映る世界――今はアイゼン=サルビアの姿で占め られている。  その姿――ラナンキュラスには、すぐに理解できた。理解出来ていないリュースは驚きを表情に 現していた。 「アイゼン=リリーと、同じ……!?」 「そうだ、リュース」  ラナンキュラスは、落ち着いた声だった。驚くことなど何もないと、言外に示しているようだっ た。 「これが"鉄の四姉妹"――アイゼンの名を冠された、人形どもよ……」  アイゼン=リリーにとっては、覚悟など要らない状況にあった。  これから、ほんの数秒後の出来事で、何かが大きく変わるような気がしていた。何か、恐ろしく、 またいけないことなのではないかと思われた。アイゼン=リリーの体内は、ある一部分が壊れてし まうのではないかというほど震えていた。普通の人間であれば、それは心臓と呼ばれる部分だった かもしれない。  しかし、それでも、覚悟などは要らないのである。 「いいの?」  アイゼン=サルビアは、歪んだ笑顔で、確実にアイゼン=リリーの額と自分の額とを合わせよう と迫ってくる。二人の顔の距離は、指一本間に入るかどうか、というところまで近づいていた。 「本当に、覚悟は出来てるゥ?」  今にも笑い出しそうなほどに、アイゼン=サルビアは破顔していた。彼女は心底、この状況を楽 しんでいた。 「…覚悟なんて――要らない」 「強がってンじゃないのォ?」 「ただ、在るべき姿に戻るだけよ。私を元に戻してくれると言うのなら――望みこそすれ、拒むこ とはしないわ。私は、このままではいけない気がしている。だから……」  アイゼン=サルビアは、本当におかしくて仕方がないという面持ちだった。どうしようもなく恐 れているのに、それでも全て受け入れるというその姿勢――アイゼン=リリーの強がりとしか、受 け取れなかった。  互いの息がかかる。開いた唇の先が、睫毛の先が、相手に当たる。 「そう――じゃあ、あたしは、もう知らない! 思う存分苦しみなッ!!」  アイゼン=サルビアは叫んで、しかしそっと自らの額をアイゼン=リリーの額に当てた。  瞬間―― ―――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――― 「…始まった」  クレソン王国より遥か遠く離れた海上に、巨人が頭だけを出していた。その天辺には、アイゼン =アイリスが立っていた。  そういえば――アイゼン=アイリスは思い出していた。アイゼン=サルビアのゴーレムが、未だ 目覚めていないことを。そして、アイゼン=リリーのゴーレムが、他のゴーレムと異なる性質を持 っていたことを。  アイゼン=アイリスは、"妹"へ愛情を持ってなどはいなかった。否、愛情という言葉を持ち合わ せていないのかもしれなかった。  動くのは、目的のため。共通の目的を持つ方の"妹"――サルビアを、アイリスは救おうとする。 「サルビアを、守らなくては――」  アイゼン=アイリスは、ゴーレムの額をその手で思い切り叩いた。ゴーレムは深い深い海の底へ 潜って行った。  予感があった。  アイゼン=リリーが"弟"と呼ぶ、あのゴーレムは――必ず、動くと。  決して、邪魔立てはさせない。  アイゼン=アイリスは、ゴーレムの額にぎゅっと親指を押し付けながら、憎しみの心を育ててい た。 V  動かないゴレムは、人間からはただの巨大な置物にしか見えない。  人間には解らない。ゴレムが内に秘めている気持を。  人間には、ゴレムに感情があるなど想像さえ出来なかった。  そして人間達は、過信していた。  己の生み出した、強力な"道具"の力を。  そして人間達は、想像出来なかった。  いつの間にか、彼らは信じきっていた。 「俺達を凌駕する存在などない」と――  それは、獣のようだった。  アイゼン=リリーの姿はそこにあって、しかしなかった。  さしものアイゼン=サルビアも、目の前にあるアイゼン=リリーの変わり果てた様子には、内心 驚きを禁じ得なかった。  アイゼン=リリーは、波に呑まれていた。  "記憶"という、巨大な波に。  容赦などなく。  水を得た魚のように、記憶はアイゼン=リリーの中で踊った。  余りにも膨大で、積もり積もった長きに渡る記憶の山。それらをすぐに咀嚼することなど出来る わけもなく、アイゼン=リリーは地面に膝つき苦しそうに頭を抱えていた。  その眼は錯乱を表し、口からは呻き声が溢れ、涎も止め処なく漏れ出していた。  それは、今すぐにでも理性を失いかねない、まさしく獣のような――  ――しかし。  心まで獣に染まってしまったわけではない。  頭の中を跋扈する記憶、その隙間で小さく、しかし確かに声を上げていた。  アイゼン=リリーが今頼れる唯一で、最大の存在。  ――最愛の弟、ゴレムへのSOS。  "ゴレム、助けて、ゴレム、助けて、ゴレム、苦しい、助けて……ッ!"      分かっていた。こんなことを想っても、来てはくれない。ゴレムは今もネモフィラの山の頂上で、 強力な捕縛道具によって縛り付けられているはずだ。対して、アイゼン=リリーは海底にいる。あ まりにも距離が離れすぎている。  届くわけがない。こんな想いなど―― 「――さ。どう? これでもまだ"在るべき姿に戻るだけ"なんて言えるゥ?」  アイゼン=サルビアが言う。アイゼン=リリーは何も言わない。言えない。 「答える余裕もない――みたいね。でもこんなんじゃあ、先が思いやられるなァ。あんた、解って ンの? 今は渦巻いてるだけの記憶がきっちり繋がったら、あんたもっとキツくなるわよ。だって あんたは――偽善者。そう、偽善者だもの! お優しいリリーちゃんにはイタい記憶でしょう よ!!」  嬉しそうに、アイゼン=サルビアは二度"偽善者"と言った。  しかしそれでも、アイゼン=リリーはまだ前を向こうとはしない。ただただ、下を向いている。 アイゼン=サルビアの位置からその表情は窺い知ることが出来ない。  それが、アイゼン=サルビアの怒りに火を点けた。 「あんたッ、こっち向きなさいよ!!」  背に掛けた釣竿を掴み取ると同時に、アイゼン=サルビアはそれを放とうと後方にビュンとしな らせた。  その瞬間。 「――聴こえる」 「…何が?」 「え……何故……? 声が、こんなに離れているのに――ぴったり、耳をつけなければ、聴こえな かったはずなのに――」 「訳わかんないこと、言ってんじゃないわよ!!」  それは、深化の証なのか。  アイゼン=リリーとゴレムは、まるで鯨のように、離れた所からお互いの声を聴き合っている。  離れた――否。声は、どんどん近くなる。  距離が、確実に、急速に、近づいてきている。 「ああ、ゴレム……あなたの声が、今の私にはとても良く聴こえる――」 『リリー、待ってて――もう少しだ』  アイゼン=リリーは、感動さえ覚えていた。これまで、アイゼン=リリーはゴレムの"声"をある 程度までは"想像して"理解していた。それはゴレムがアイゼン=リリーの普通使っている言語とは 異なるものを用いていたためだ。ゴレムの"声"とは、例えるならば楽器の音色のような、動物の鳴 き声のようなものであり、普通の人間が聴けばまず意味など見出せない代物だ。しかしアイゼン= リリーには何となく理解出来るような類のものだった。  それが今、ゴレムの"声"は、アイゼン=リリーのそれと同じ種類の音として聴こえてきていた。 当然、きちんと理解出来る。想像の入る余地などない、リアルとして。  ああ、ゴレムは、自分のことを"リリー"と呼んでいたのか――アイゼン=リリーは、不思議な感 覚に襲われた。  同時に、ある疑問も生じた。しかし今は、そのことについて考えている暇など微塵もなかった。 「何、これはッ……ゴーレム――!? まさか、あんたのゴーレムが来てるっていうわけ!?」  アイゼン=サルビアも、ゴレムの存在は感じ取っていた。その狼狽ぶりは、普通ではなかった。  ゴレムの声に冷静さを取り戻したアイゼン=リリーは、さらりと言い放った。 「ゴーレムじゃないわ――私の愛する、ゴレムよ」 W  アイゼン=サルビアはうろたえていた。  ゴーレムなど、見慣れたものだ。アイゼン=リリーとは違い、古くの記憶をしっかりと維持し続 けている彼女にとっては。  それなのに――瞳は、踊っていた。ぶれて、ぶれて、落ち着かなかった。今のアイゼン=サルビ アは、まるで想い人をしっかりと視界に捉えられない少女のようだった。  そんな少女状態では、普段は回りすぎるほどに回る頭脳も機能が鈍くなってしまう。何か忘れて いる気がしていた。何か忘れている気がするが、思い出せない。  近づいてくる。まもなく、この建物は破壊されてしまう。破壊されれば、ここに至るまで一度も 侵入を許さなかった海水が、怒涛の勢いで迫ってくる。そして瞬きする間もなく凌辱は完結する。  ――だが、止まった。  水圧などないかのような勢いでここまで進んできたゴレムが、ここで完全に止まった。  二人とも、その理由は解っていた。  ゴレムほどのスピードではないが、同じく近づいてきていた、もう一つの存在があったのだ。  ゴレムの表情は変わらない。そもそもゴレムに表情などない。  だが――ゴレムの感情は、一目瞭然だった。表情など関係ない。眼に映らぬ怒りが、その海中に 確かに在った。  そしてその怒りの矛先は、アイゼン=アイリスとそのゴーレムに向けられていた。  …何を、見ている?  アイゼン=アイリスは、歯軋りした。そして、怒りを怒りで跳ね返そうと、狂気じみた眼差しで ゴレムを睨み付けた。  静寂が戻った室内。  それが一瞬か、長く続くのかは分からないものの、静寂にはアイゼン=サルビアを落ち着かせる だけの効果があった。  そして、やっと彼女は思い出した。  建物――かつて"研究所"と呼ばれたこの場所には、自分を生み出した"父親"がいることを。そし て"父親"には、まだ利用価値があるということ。  そして何より"父親"を目の前のアイゼン=リリーに渡してはならない、ということ。  アイゼン=リリーは、ゴレムに話し掛けていた。 『どうしたの、大丈夫? ゴレム』 『…ちょっと邪魔されているだけ。心配は要らない。それより――』 『…それより?』 『自分のことを心配して、リリー』  ゴレムの声が頭に響いたのと同時に、アイゼン=リリーは右手首に何かが巻き付いたと思った。  それは、アイゼン=サルビアの糸。釣糸だった。  振り解こうと手を上げたが、アイゼン=リリーの腕は止まった。電撃のようなものが手首から上 腕にかけて走り、その後硬直した。 「便利なのよ、これ。ル・レーブが全部一緒だと思ってた? あたしのは、あんたのみたくただ頑 丈なだけがとりえじゃないの! ちょっと知識があれば、改造くらいは簡単に――」 「"あなたの"知識じゃないでしょ」  アイゼン=リリーは、鋭く言った。それが真実だと確信していることを示すために。 「誰か……まだ、頭の整理が間に合っていなくて分からないけれど、少なくともあなただけの知識 ではそんな改造は出来ない。そのくらい、解るわよ。記憶が落ち着くところに落ち着けば、誰が協 力者なのかも分かるのでしょうけどね、サルビア――」 「…随分、枝葉にご執心なことね? 誰が改造したかなんて、そんなのはどうでもいいじゃない」 「枝葉ではない、大事なことよ。だって――その人は、きっと私達を創造した人と同じはずだから。 アイリス、サルビア、私、ドラセナ……皆、その人に創られた。その人がいたから、私は今ここに 在る。どこが枝葉なの? 重要なことじゃない」  アイゼン=サルビアは、舌打ちした。アイゼン=リリーのようなタイプは、大嫌いだった。アイ ゼン=アイリスは使い易く、重宝な存在だったが、アイゼン=リリーはまるで使えそうにないと思 っていたからだ。何故なら"それなりに"聡明で、無駄に正論を吐きたがるからだ。正論より自分の 意志を最優先にしたい、意志を通すためなら、道理など投げ捨てても構わないという考えのアイゼ ン=サルビアとアイゼン=リリーは、まるで水と油である。  アイゼン=サルビアは、アイゼン=リリーを憎んでさえいた。殺せるものなら殺したいとさえ考 えていた。  しかし、今はそれは出来ない。今、アイゼン=リリーを殺すわけにはいかなかった。"父親"の意 志を受け継ぐ存在である、と自任しているアイゼン=サルビアにとって、アイゼン=リリーは最も 重要なピースであった。ゴレムだけでは足りない。"力の執行者"が必要なのだ―― ――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――――  細雪降る、ロベリア大陸南部の雪原。雪の勢いは、アイゼン=リリーとゴレムがいた頃に比べて、 幾分弱まっているようである。春が近いのだろう。  雪原に、ぽつんと佇んでいる木造の小屋があった。そこだけ、命の気配がした。  暖炉には真赤な炎が揺れている。少女は、下準備の済んだ鍋を炎に掛けようとしていた。  だが、その手前で鍋を落とした。ごおん、と音がして、鍋の食材が次々こぼれた。 「どうした、コルチ」  老人はロッキンチェアーからゆらりと立ち上がり、占術師コルチに声を掛けた。コルチの唇は震 えていた。その眼は弱々しかった。 「どしたんじゃい、どこか、怪我をしたのか?」 「…おじいちゃん、すぐに馬車を呼べる?」 「馬車じゃと? 馬車……ああ、今日食材届けに来る予定の筈じゃ。しかし、それがどうした?」  老人に問われ、コルチは目を逸らした。  "占術師は視えたものに逆らうことは出来ない"  "唯一絶対の掟"  ――しかし、コルチには抑え難い思いが生じていた。  視えてしまったのだ。絶対に視たくはなかった光景が。本当の姉のように慕う、何よりも大事な、 幸せになって欲しいと心から願っていた存在――アイゼン=リリーの姿が。  そして、その姿は――  …確かな未来を自らの手で作り変えてしまったら、それはもう、神……  …それでも。 「ごめん、おじんちゃん。あたし、それに乗っていく――」 X  ゴレムは惑わない。  その泰然たる様は、アイゼン=アイリスにとって屈辱だった。  ――お前など、まるで恐れていない。  そう、目で語られているようだった。ただの塊であるはずの、目に。  しかし、アイゼン=アイリスは、ゴレムを恐れていた。怒りは、恐怖を覆い隠すベールとしても 作用していた。  もっとも、たとえ気付いていたとしても、決してアイゼン=アイリスは恐怖という名の存在を認 めはしないだろうが。  怒りは即ち殺意。だが、絶対にゴレムを破壊してしまうわけにはいかない。アイゼン=アイリス とアイゼン=サルビアに共通する目的を達するためには、一時の怒りに押し流されてしまうわけに はいかなかった。  ――憎い、リリーのゴーレム!  アイゼン=アイリスは、自分のゴーレムから離れた。そして、水中でゆっくりと、ゴレムに接近 していく。水中では、釣竿は使えない。しっかりと狙いは定められていた。場所は――額。  ゴレムも、自分に近づいてくるアイゼン=アイリスをただ眺めているわけではない。しかし、叩 き落とそうとした刹那、身動きが取れなくなった。ゴーレムがゴレムの身体を締め付けたのだ。さ すがの怪力も、自分と同じサイズを持つゴーレムに抱き締められては、振り解くこともままならな かった。  こうして悠々ゴレムの頭に降り立ったアイゼン=アイリスは、赤いドレスの胸の内から、先の尖 ったネックレスを取り出した。 「…!?」  アイゼン=リリーは、狼狽した。 「上手くやったみたいね……"お姉様"」 「ゴレム! どうしたの、ゴレム!?」 「ムダだって。喚くな!!」  アイゼン=サルビアの声は、真っ白な空間に響き渡った。ジイィィィ、ン、という音が止むのも 待たず続けた。 「緊急停止装置、っていうのかなァ……付いてるのよ。知らなかった? まだ、思い出してない ィ? "お姉様"がそれを押したの。これで、あんたのゴレムさんは、動けなくなりましたとさッ」 「…どうすればいいの?」 「…は?」  アイゼン=サルビアは、アイゼン=リリーの態度に面食らった。まさか、この状況で尋ねてくる とは―― 「起こすことだってできるんでしょう」 「…あのねえ。教えると思う? あたしの――"お父様"の目的のため、あんたのゴレムが必要なん だから。来るべき時が来るまで、ずっと眠っていてもらうわよ。当たり前だよね!?」 「別に、教えてもらおうなんて思っていないわ。今のは、最後に確認しただけ。"きっと、最後ま で理解し合うことはできない"とね。あなたと私は違う。だから、私も、私の目的のために動く― ―」  アイゼン=リリーは、動く方の腕で、背中のル・レーブを取り出した。 「あんたの目的ィ? 記憶失くしてた分際で、リリーちゃんは一体どうして目的をもてたって言う のかしら?」 「たった今よ。ここまでの目的は、コルチが与えてくれた。だけど、ここからは、私の意志」  ル・レーブは速度を増した。空気を切り裂く音が響く。アイゼン=リリーは、徐々に回す速度を 速めていった。 「…あなた達の目的を達成させない。それが、私の――」  釣針が、天井のフックに掛かった。  アイゼン=リリーは、後ろに飛び上がった。 「――そして、生きる人々の意志!」  しなりを利用して、アイゼン=リリーは天井に一直線で飛んだ。部屋はほとんどが壁で覆われて いるが、天井には数箇所、ガラス張りの箇所があった。ピンポイントで貫こうとする力に、ぶ厚い ガラスは悲鳴を上げた。 「詰めが甘かったわね。両腕を封じれば良かったのに」 「…るさい」  ガラスは軋んでいる。アイゼン=サルビアもまた、軋んでいた。 「…ふん。でもさ、あんた、起こす方法分からないじゃない。邪魔なんて出来ない。無力なあんた に出来ることは、ここを水浸しにすることくらい――」 「十分だわ。それに、問題ない。私が知らなくても、ゴレムは知っていたもの」 「…なに?」 「ゴレムは――」  ガラスは、砕けた。 「…ふん。ふん。ふんだッ!!」  アイゼン=サルビアは、愚痴りながらびちゃびちゃと歩いていた。アイゼン=リリーはもういな い。独りに戻っていた。 「アイゼン=リリー……ストケシアめ……ズルいのよォ、ルピナスを独り占めにしてェ……! ス トケシアなんかより、リアトリスの方が可愛い黙れリアトリス」  一瞬リアトリスに占められた意識を、アイゼン=サルビアは一瞬で取り返した。 「…別に、私はリリーに負けていない……そう、本番はこれから。リリーなんて、どうとでもなる。 コイツさえブチ込んでしまえば……!」  アイゼン=サルビアは、先の尖ったネックレスを鳴らした。そして、口元を激しく歪ませた。 「…だから、悔しがる必要なんてないのよ、アイゼン=サルビア……そう、ドラセナさえ抑えてし まえば、リリーは孤立するんだから」  そして、アイゼン=サルビアは奥の部屋の扉を開けた。その広い部屋の中央には、人間の脳を収 めた透明なケースがあった。アイゼン=サルビアはケースを大事そうに抱えた。 「そして何より、"お父様"があたしと一緒にいてくれるなら――ねえ、"お父様"。あたしは、リ リーなんかに負けないよね? ねえ、スターチスお父様――」  脳は、何も言わずにいた。 Y  その時、小さな島が小さく揺れた。  小屋の中の女には分かっていた。それが地震などではないということを。 「…時が、満ちたということ?」  女は、諦めたような顔で外に出て、地面にそっと触れた。 「あなたも、じきに、目覚めてしまう?」  地面は、音もなく胎動していた。  ――ゴレム。自信はある? 『大丈夫、"あんな奴"の考えることなど、お見通しだよ』  ――大体、科学者などという者は。 『自己顕示欲が強い。あいつは特に、そうだった……』  ――答えは一つ。そうよね、それしか、ない。 『リリー、来て』  ――今すぐ行くわ。  海底。アイゼン=リリーは、微笑んだ。  本当に、あのアイゼン=アイリスというのは愚かだと思っていた。今も、どうせ"目覚めの言葉" など分からぬとばかりに高見の見物としゃれ込んでいる。現に横たわっているゴレムに近づいて行 くアイゼン=リリーのことを妨害しようともしなかった。  アイゼン=アイリスはもちろん、アイゼン=サルビアにも、ゴレムの声は届かない。ゴレムの声 を聞けるのは、アイゼン=リリー唯一人。同じく造られた存在にも関わらず。  ――ふふっ。 『どうしたの?』  ――ゴレムは、"ひそひそ"話しているのでしょう? アイリスやサルビアに聞かせたくないから。 『…俺は、本当に話したい人としか話したくないから』  ――サルビアが、あなたと話したがっていたわよ。 『…あいつ、苦手だ』  ――私も。…さあ、こんな居心地の悪い場所、早く出ましょう。 『オーケー』  アイゼン=リリーとゴレムは、額と額とを合わせた。アイゼン=リリーが思い浮かべた言葉は、 ほんの五文字の人名だった。 「――上がって来る! とてつもない速さで……ッ!」  最新鋭の水中探知機が、海底から急激に上昇してくる一つの影を捉えた。画面には、他にもう一 つ影が映っているが、速度がまるで違う。今にも飛び出す寸前であった。  リュースはラナンキュラスを見た。その目は充血していた。 「ラナンキュラス王、捕縛の準備は万全で――」 「よい」 「は?」 「放っておけばよい。下手に手を出せば、こちらも只では済むまい。ネモフィラであっけなく捕縛 された巨人とは、別物に変わっている……それに、まだ"準備"が出来ていないだろう?」  準備――リュースは、ああ、と声を漏らした。 「た、確かに、今はまだ集めたデータを確認している途中で……」 「そう、まだ、時は満ちてはいない、が――あれらは、もう一度、この場に集結するぞ。アイゼン =リリーの動向は、引き続き追い続けておくように」  その時、ラナンキュラス達の目の前を、巨人が一瞬にして通過して行った。そしてそのまま北西 の方角へ消えて行った。もう一つの影は、追跡を諦めたか、途中で海底へ引き返していた―― 「…ねぇ、ゴレム」  アイゼン=リリーは、時折撫でるような仕草を見せながら、ゴレムの頬に触れていた。 「とてもおかしなことなのだけど、私……あなたのこと、弟だと思えなくなってきたの」  アイゼン=リリーの鉄の胸に、ざわつきが起こっていた。起こり始めたのは、初めてゴレムと同 じ言語を共有した、あの瞬間からだった。 「不思議ね、本当に……」  ゴレムは、黙っていた。言いたいことはあったものの、押し黙っていた。 【アイゼン=リリーとアイゼン=サルビア/了】